第152話 7月19日 蕎麦の日

     

季蕎麦めぐり()

 

ホトトギス なほも鳴かなむ 本つ人

かけつつもとな 我(あ)を音(ね)し泣くも

 

 元正天皇の歌である。「本つ人」とは身近な人をいう。だから、ホトトギスよ、もっと鳴いておくれ。亡くなったあの人のことを思い出させて、私を泣かせてひどいけど・・・・・・。といったところだろうか。

 元正天皇は女帝である。即位前の名は氷高皇女という。715年、母の元明天皇から譲位された。36歳の女盛り、それでいて独身。しかも、もの静かで美しい人だったと伝えられているから、彼女の心を占めていた「本つ人」とはいったい誰だろう? との浪漫をかきたてられてか、これまで多くの小説に採り上げられてきた。

 そんな彼女の即位7年後の722年(養老6年)ごろになると、災害や旱魃が生じ、そのため天皇は天神地祇に祈ってみたが、効なき日々が続いていた。

 そこで元正天皇は、こんな詔を発した。

 朕は凡庸でおろかなまま皇位を受け継いだので、自分に厳しくして、自らつとめてきた。けれども誠意がまだ天に届いていない。このため今年の夏は雨が降らず、稲の苗は実らなかった。そこで全国の国司に命じて、人民に勧め割り当てて晩稲、蕎麦、大麦、小麦を植えさせ、その収穫を蓄えおさめて、凶年に備えさせよ。(722719)

 

 蕎麦は救荒作物だとして知られている。

 たとえば、平成10年に福島県大熊町の旧家横川一郎宅の天井裏から蕎麦の実が入った俵(長さ70cm×直径30cm)6つが見つかったことは、一時新聞を賑わしていたので蕎麦ファンには広く知れ渡っていることである。見つかった横川家では、代々こう言い伝えられていたという。「人々が飢えで苦しんだ天保の大飢饉を体験し、子孫には同じ思いをさせないように、蕎麦を非常食として保管している」と。

 こうした発想の原点は元正天皇の詔にある。

 ただ、彼女の着想は早すぎた面もある。蕎麦、大麦、小麦を植えさせ、その収穫を蓄えさせ、凶年に備えさせるという救荒政策はそれでいいのだが、なにしろ当時の日本人はそれらの食べ方を知らなかった。だから、救荒作に留まり、蕎麦、大麦、小麦が日常食までには至らなかったともいえる。

 江戸ソバリエ・ルシック「寺方蕎麦研究会」の会長伊藤汎先生によると、食における変化、改革は、(1)食材、(2)食べ方、(3)道具、の三位一体が伴ってはじめて実現するという。蕎麦、大麦、小麦を植えて実になっても、煮て、焼いて食べるとか、麺にするとかの料理法と、それらに必要な道具がなければ救荒作ていどに留まるのみである。

 しかしながら、「その収穫を蓄えおさめて、凶年に備えさせよ。」とは、まことに女性らしい政策理念である。

 その後、彼女は45歳で皇位を聖武天皇に譲った。そして748年に崩御。

 今は、木々がうっそうと繁る奈保山御陵に眠っている。そこは近鉄奈良駅からバスに乗って、奈保山御陵で下車するとすぐである。

 「あなたを救う」― これは蕎麦の花言葉であるが、美貌の女帝元正天皇に実にふさわしい。よって、詔を発した719蕎麦の日とする次第である。

 かくて、蕎麦愛好家にとっては、7/19の蕎麦の日(元正天皇詔)、3/16の蕎麦切の日(定勝寺の蕎麦切初見)、2/3の江戸蕎麦切の日(常明寺の江戸蕎麦切初見)の、蕎麦三大記念日が勢ぞろいするのである。

参考:奈保山御陵(奈良市奈良阪町)、宇治谷孟訳『続日本紀』(学術文庫)、ほしひかる「蕎麦を愛した氷高皇女」(『日本そば新聞』平成17年1-6月号)、

 蕎麦三大記念日=7/19の蕎麦の日(第152話)、3/16の蕎麦切の日(第136話)、2/3の江戸蕎麦切の日(第131話)

季蕎麦シリーズ(第152、149、145、143、140、136、131、130、129話)

〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕