第66話 お国そば物語 ④野呂在来
☆在来種
外来種に対して在来種というのがある。江戸時代以前に生育していた固有の動植物のことである。
もちろん蕎麦にも在来種がある。見た目は小粒だが、締まりが良くて味が濃い。現在では、長崎県の「対馬在来」、鹿児島県の「大隅在来」、徳島県の「祖谷在来」、島根県の「出雲在来」、長野県の「奈川在来」「番所在来」「黒姫在来」「戸隠在来」、福井県の「大野在来」など多くが知られている。
いずれも山間傾斜地に多いから、生産効率が悪い。しかし、その土地でなければ在来種の良さは発揮できないため、返って付加価値の高いものになっている。この貴種性と蕎麦のもつ野趣性とがあいまって、蕎麦好きにはたまらない魅力である。
ただ、在来種を育てるのは難しく、農家だけでは絶やしてしまう危険性がある。種を見つけたら、県の試験場などで低温保管し、大切に守っていくことが不可欠だと、信州大の名誉教授氏原先生は指摘されている。
そこへ近年、千葉県で「野呂在来」というのが発見され、蕎麦会や蕎麦屋から成る「野呂在来普及協議会」(個人14+団体6)が大事に栽培を続けている。
☆野呂在来
千葉県の下総台地という所には、初富(鎌ケ谷市)、二和(船橋市)、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄(富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一 (白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市)と、一~十三までの数字が入った地名がある。
これは明治2年、新政府の東京在住の旧士族出身者に対する失業者対策により、旧江戸幕府の牧の開墾事業が計画され、初富から入植が始まって、順に開墾されて村になったものである。開墾者達は、関東ローム層を開墾し、短期間で収穫でき、痩せた土地でも育つソバを作付したり、さらには麦、芋類の輪作、雑木林の落葉を利用した畑作を行ってきた、という開墾の歴史を残す地名なのである。
ソバ在来品種「野呂在来」」を保存してきた土屋徳多郎さんのご先祖も、埼玉県越谷市から千葉市若葉区野呂地区にソバの種子を持って入植し、そうした開拓に励んだ一人だった。その子孫である徳多郎さんもまた60年以上栽培を続けられてきた。その野呂在来の生態型は秋型に属する。粒は大半が4.5ミリていどである。
この土屋家の蕎麦を千葉県農業大学校の長谷川理成先生(当時:千葉県農林総合研究センター・育種研究所長)が見つけられ、それを「野呂在来普及協議会」(会長:大浦 明)が育成するようになった。
「協議会」では、「野呂在来」のルーツを次のように推定している。
土屋家のご先祖がおられた越谷市は日光街道二十一次のひとつの宿場町である。そんなところから、元の品種を辿れば、北関東の「葛生在来」、「鹿沼在来」、「益子在来」といった中間秋型のソバ在来品種なのかもしれない。それが越谷、そして千葉へと伝わったのではないだろうか。
☆千葉県野呂在来そば祭
以前、江戸ソバリエ・ルシックの小林さんにご案内され、市原の「みのしま」さんで野呂在来を食べたことがあったが、今日また「野呂在来そば祭」を訪れた。会場には「野呂在来」を聞きつけた蕎麦好きはもちろんのこと、一般の千葉県民も関心をもち始めたのか、600人を越す来場者が長い行列を作っていた。そこで皆さんは、協議会の人たちが愛情をもって育てた千葉在来の蕎麦を嬉しそうに食される。しかし、何よりも印象に残ったのは、協議会の人たちの充実した顔色であった。何かの縁あって甦った在来種、それをここまで育てたのは私たちだ。そういう自信が現れていた。
そんな協議会の人たちを前にして改めて「野呂在来」を啜ってみると、特有の香り、甘みに加えて、北関東から埼玉、千葉へと数百年を流転した歴史ロマンが見えてくるようだった。
【野呂在来を打つみのしまさん 撮影:小林照男氏】
参考:お国そば物語 ①(24話)、②(42話)、③(44話)、
氏原先生の話、江戸ソバリ・ルシック小林照男さんの話、平成22年11月28日・千葉県野呂在来そば祭(野呂在来普及協議会)資料、
♪ 江戸ソバリエは関東の蕎麦「野呂在来」を応援しています。
〔蕎麦エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕