第112話 乾隆帝が愛した撥御麺を求めて!

     

中国麺紀行④  

 

☆張三営 

 私たちは、承徳市(人口約360万人)から隆化県(人口約40万人)へ、そして張三営という村に向かった。承徳市 ~ 張三営は普通だったら1時間半、しかしこの日は事故による交通渋帯に巻き込まれ、倍を費やしてしまった。

 その昔、一帯は100戸余りの村民が住んでいたため「一百家子」と言っていたらしい。そこへ1703年ごろ清朝の康熙帝の三大隊が駐屯した。三人の隊長は共に張氏だったところから、いつしか「張三営」と呼ばれるようになったという。現在の正確な住所は、中国では省・市・県・村となっているから、「河北省 承徳市 隆化県 張三営鎮河東村」となる。

 その張三営にある「百家春酒楼」という店で①蕎麦を食べることと、②蕎麦打ちを見せてもらうことが、今回の旅のメイン・イベントであった。店の予約についてはマダム節子さんと李先生に骨を折ってもらった。

 【「百家春酒楼」】

 遅くなったせいもあって、到着するやすぐに蕎麦打ちが始まった。私たちは全員厨房に入った。

 あんがい深い陶製の壺に、蕎麦粉を入れる。粉の産地は内モンゴルに近い木蘭県産。木蘭県というのは、清の時代は皇家の狩猟場であった。その産の蕎麦粉を使っているということは、この張三営地区が皇家の伝統を大事にしているということであろう。その蕎麦粉は「白蕎麦」と呼ばれているだけあって、1番粉のように白かった。ただ、専門家によれば粗い石臼で挽くと白い粉になると聞いている。もしかしたら、今日の昼の大酒店に置いてあった石臼のようなもので挽くのかもしれない。その粉に熱湯を注ぐ。日本でいう湯捏ねだが、われわれの水回しのように熱心に捏ねない。軽くトントンと錬る程度だ。「水は近くの龍泉の水、これでないとダメ」と店の職人さんは言う。若いころ北京にお住まいだった寺西さんは「中国の水はだいたい硬水だけど、龍泉の水は軟水ではないかしら」とおっしゃった。 

柔らかい塊を取り出し、延し板に載せる。その延し板は陶製の壺に橋渡しているだけ。これなら狭い場所でも打てそうだ。延し棒も短いし、1本。少し延したらすぐに切り始める。柔らかいため打ち粉をたっぷり使う。庖丁は両柄、それで撥ねるように切っていく。だから「刀撥麺」と呼ぶらしい。なぜ撥ねて切らなければならないのか理屈が分からないが、柔らかいから普通のように切っていたら、庖丁にくっついてしまうから、撥ねるような切り方が生まれたのだろうかと思ったりした。

 【両柄庖丁で撥ねるように切る:江戸ソバリエ土屋さん撮影 

 ただ、切り口は日本のように四角ではない、三角になる。なぜそうなるのか、これも理解できない・・・・・。それから麺を茹でる。

 一方では、別の職人さんが、押し出し麺を作成。蕎麦粉は十割、ただし真っ黒。刀撥麺の方は茹でるが、こちらの押し出し麺は蒸す。 

 なぜ、切り麺は茹でて押し出し麺は蒸すのか、これも理由が分からない。そして、麺を「蒸すこと」と「茹でること」は、どちらの方が早く登場したのだろうか? などと考えた。

 そもそもは「ドウ」から「麺」が考え出されたのだから、「饅頭などを蒸すこと」が「麺を茹でること」より早いのだろか? だとすれば、茹でる切り麺より、蒸す押し出し麺が早く考えだされたのだろうか? と考えていたら頭がこんがらかってきた。

 そういえば、わが国においても蕎麦を蒸していた時期があったらしいが、史料にちらりと掲載されているだけで、詳細は不明である。

  そんなところから、実験的に蒸し蕎麦を食べる機会があったので、食してみたことがあるが、あまり美味しくはなかった。

  

 さて、卓に着くと、たくさんの料理と共に、切り麺と押し出し麺が並んだ。

 刀撥麺の汁は鳥のスープ+豚肉(千切り)+榛蘑、木耳、塩。要するに、日本のつゆより、スープに近い。

 押し出し麺の汁は椎茸、玉子+胡麻垂れ+香菜に、唐甘辛子、にんにく、辛子らしい。

 白蕎麦も、押し出し麺も美味しかった。

 経験から、押し出し麺は蒸した方がいいということで、この方法がとられているのかもしれないと思った。

 蕎麦粉で作った餃子、カッケ、寒天も食べた。他の料理も山のように出た。

 蕎麦餃子、蕎麦カッケ、蕎麦寒天

 刀撥麺と汁

 押し出し麺

 食べながら、やはり「なぜ撥ねさせるのか? なぜ三角になるのか? どうしても理解できない」という話になった。

 麺を作るには、(1)手で引っ張ったり、(2)押し出し器を使ったり、(3)庖丁で切ったりといろいろな方法がある。

 庖丁で切る場合、中国では①先刻見せてもらったように、両柄庖丁で撥ねるように切る「刀撥麺」、②庖丁で削る「刀削麺」 ③大きな庖丁で断ち切る「大刀麺」、④あるいは普通の庖丁で切る麺や、⑤なかには鋏で切る麺など、整理できないほどたくさんあるようだが、要するに身の回りにある刃物を使ったことが最初だろう。

 その点、日本の場合は、切る対象を特化させていった。蕎麦の場合は蕎麦庖丁、刺身の場合は刺身庖丁と、少し庖丁に向き合う姿勢がちがうようだ。

 さらに視野を広げれば、庖丁、ナイフは世界で使われているが、使い方は異なっている。どういうことかというと、日本や中国では、食卓上での刃物の使用を禁じ、料理はあらかじめ厨房で俎板などを使ってきれいに切っておく、あるいは刃物は厨房や畜場でのみ使うもの、という考え方である。それは孔子の格言「君子厨房(=庖丁)に近寄らず」に基づくのかもしれない。

 しかし、ヨーロッパ人は食べるときにナイフで切り分けたり、あるいは俎板を使わず刃物を手で持って材料をそぎ落とすようにして使うなど、反対である。

 だから、刃物の使い方、使う場 (厨房or食卓) が異なることを分類しようとするとき、その使い方に介在する女房役の俎板に注視して俎板文化圏」と呼んだ。日本もその俎板文化同盟国≫の一つであることはいうまでもない。

 ともあれ、当店の切り麺は「刀撥麺」であることが特色であるが、特にこの地区は「撥御麺」と称している。それは、清朝6代皇帝である乾隆帝が愛した麺だから「御」の字が付けられているという。

 乾隆帝という人は尊敬していた祖父の康熙帝と同じことを行った。木蘭の狩、承徳離宮への避暑などもその例である。

 余談だが、私の家の近くに「木蘭」という中国料理店がある。特に意識もしなくて、勝手に「もくらん」と読み、花の名前かなんかだろうと思っていた。ところが、この度の旅で、それは「mulan」と読み、満州語で「狩猟場」を意味することを初めて知った。 

 その木蘭の囲場に狩に行く途中、乾隆帝が一百家子の伊遜河東岸の龍潭山の麓に寄られた。

 そのとき、村の撥麺師の姜家兄弟が打った白蕎麦を召し上がっていただいたところ、たいそう気に入られた、と今も語り伝えられているのである。それは1762年秋のことであった。349年もの昔の、ちょうど今ごろの季節に乾隆帝は撥御麺を食されたのだろう

 

 

☆陸化県

 張三営の「百家春酒楼」を辞して、陸化県へ戻り、1泊した。ご覧の写真がそのホテルであるが、承徳地区らしい建物だった。

 陸化県のホテル

 朝起きてから「市」に行った。市場はホテルから近いから歩いて行く。川渕に柳の樹が何本も立っていた。「木」ではなく「樹」と書いたのは、全体に中国の柳は大きく逞しいからだ。日本でいう「柳腰」なんていうのはあり得ない。大きいといえば、あちこちでトウモロコシ畑を見かけたが、そのトウモロコシもなかなか逞しい

  「朝市」にはたくさんの人が集まっていた。観光客はわれわれの他はいない。売りたい人と買いたい人が寄ってきている。ただそれだけだ。そんな感じをうけた。おそらく千年もの昔の市もこんなだったろうと思わせるところがあった。

朝市の光景

 「市」では食料品を中心に衣類、小鳥まで何でも売っていたが、食料品はだいたい豚や鶏などの肉類や野菜類、さらには香辛料が多く、米は見当たらなかった。魚介は鮒だけ、と思ったら鼈が売られていたけど、まあそれぐらいしかなかった。あとで自分の撮った写真を見ると、あれだけ並んでいた肉類は1枚も写していないというのに、たった1種の魚である鮒を撮っていた。それに気づいたとき、「やはり、われわれは魚食民族だな」と思った。

 さらに廻っていると、蕎麦殻があった。押し出し麺器も売っていた。しゃぶしゃぶ用の火鍋もあった。

 饅頭、クレープのようなものなど粉モンの実演販売は元気がよかった。

 蕎麦殻

 押し出し麺器

 火鍋

 粉モンも売っています

   萬里の長城を越えた、ここ華北承徳はやはり小麦と肉食のクニ、昨夜の蕎麦汁もその中の一つなんだ、と朝市の雑踏の中で痛感した。

   そのことは、その昼の会食会でいやというほど実感するのであった。

 われわれはそれに挑むため、ホテルに戻って朝食を食べ、再度承徳市に向うのであった。

参考:ほしひかる協力「俎板の歴史」(『FOOD CULTURE』)、中野美代子『乾隆帝』(文春新書)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員 ☆ ほしひかる〕