第251話 慶喜公の《しっぽく蕎麦》
1.最後の将軍―徳川慶喜
徳川慶喜が将軍の地位にいたのはわずか1年だというのに、歴史上では「最後の将軍」としてかなり強い印象がある。
武家政権になってから、源氏、北條氏、足利氏、織田・豊臣氏の最後はいずれも蠟燭の灯が燃え尽きたように消滅していったが、徳川氏だけはちがっていた。幕を引くために慶喜が舞台に登場し、役割が終わるとサッサと下りてしまったのである。
慶喜は大政奉還後、静岡に約29年、巣鴨(豊島区)に4年、第六天町の小日向屋敷(文京区)に17年住し、生涯を終えた。
この間、勝海舟、渋沢栄一以外はほとんど誰とも会わず、趣味の放鷹、鉄砲猟、大弓、釣、打毱、宝生流謡曲、油絵、写真、刺繍などに没頭していたことは有名な話である。
司馬遼太郎によれば、それは幕府を裏切った薩摩(西郷隆盛・大久保利通)への深い憾みをかかえてのことだったというが、むしろ古の貴族のように趣味に生きることの方が慶喜の本来の性格ではなかったかと思う。
それも「凝り性」、「新らしもの好き」との評が目に付く。なかでも飯盒で炊いたご飯を食べていたとか、豚肉が好きだとかの逸話は慶喜らしさの真骨頂というところかもしれない。
2.徳川慶喜家の更科蕎麦
ところで、徳川慶朝著『徳川慶喜家の食卓』によれば、小日向邸へ「永坂の更科蕎麦の出前を頼んでいた」とある。蕎麦好きの小生としては見逃がせない記事である。著者の慶朝氏(←慶光←慶久←慶喜)は慶喜の曾孫だから、どなたかからお聞きになった話であろう。
そこで、もっと詳しい事情はわからないものかと、いろんな資料を漁ったところ、小日向邸時代(明治34年~大正2年)の慶喜の侍女小山イト(明治26年~昭和57年)の語ったところを遠藤幸威が聞き書きし、『徳川慶喜残照』として記録していたものがあった。
「美味しかった方は、富士見軒の出張西洋料理と永坂の更科のお蕎麦でしょうか。更科の方は出張してくれた訳じゃなくて、永坂の更科のご近所、当時の赤坂・氷川町四番地にお住いになっていらっしゃった御前の十男で、勝海舟伯爵家へご養子に行かれた精さまとご夫人の伊代さまのお土産に頂いたお蕎麦です。ですから《ざる》も《しっぽく》も出来立てでもないし、そう温かくもなかったけど、美味しくいただきましたよ。御前もそうです。ただ、この時の精さまは三人引きの人力の一番最後の一台一杯に「汁」と「実」と「具」の三桶に分けた物をぎっしり乗せて、早駆けで来ましょ。だから美味しく食べられたのでしょう。」
侍女イトの話は事実だろう。
「富士見軒」(青柳条次郎が明治9年に開業)のことは、「築地精養軒」(岩倉具視らの尽力で明治5年開業)、「宝亭」(井上浅五郎が明治15年に開業)と共に、まだ宮内省に洋食部門がなかったころ、「宮内省御用達」の仕出料理店の代表的な存在だったというから頷ける。
更科蕎麦のことは、勝家の養子となった慶喜の十男精が、永坂の更科の《ざる蕎麦》と《しっぽく蕎麦》を「汁」と「実」と「具」の三桶に分けて、人力車で運んで来てくれたようである。
それを御前(徳川慶喜)も、侍女の小山イトも、もちろん勝精・伊代夫婦も食べて、「美味しかった」と言っている。
では、なぜ勝精は「更科蕎麦」を選んだのかといえば、近くだったからというより、西洋料理の「富士見軒」と同じく、「更科蕎麦」が高級蕎麦店として定評があったからであろう。
そもそも「更科」は1789年に麻布永坂で開業したのが初めである。先祖は信濃国更級郡保科村(長野市)出身であったが、「更科」の初代は、麻布にあった上総国飯野藩(千葉県富津市)邸の7代目藩主保科正率にかわいがられたのか、更級の「級」を保科の「科」に替えて「更科蕎麦」と名乗り、白っぽい上品な蕎麦をもって、大名などを相手に商っていた。
それが、4代目のとき(徳川11代将軍から14代将軍のころ)には将軍家御用達となり、「御前蕎麦」と呼ばれるようになった。
しかしながら、4代目は安政6年に死去しており、5代目もまた明治6年に38歳で亡くなったため4代目未亡人トモは「孫の6代目が成長するまで」と頑張って、《御前蕎麦》と呼ばれる白い蕎麦をさらに改良した。協力したのは中野の「吉野屋」(現在:石森製粉株式会社)である。更科一門の故・藤村和夫(「有楽町更科」店主・江戸ソバリエ協会顧問)の話によれば明治34年ごろのことだという。
「女傑」と呼ばれたトモも、明治35年88歳で死去した。そして跡を継いだ6代目堀井松之助のとき「更科」は最も繁栄した。その時代はちょうど慶喜が小日向邸に住んでいたころである。したがって、勝精が実父慶喜のもとへ手土産として持参したのはこのころだろう。
しかし、「更科」は7代目のとき、戦争と不況などで一旦廃業せざるを得なかった。それを8代目良造氏が再興し(現会長)、現在は9代目良教氏が社長となっている。
そういえば、静岡に「安田屋本店」という創業慶応2年の老舗蕎麦屋があるが、そこの4代目店主の安田貞男氏によれば、「徳川慶喜が静岡城下にいたころ、当店に顔を出していたと伝えられている」と言う。現に、安田屋には昔、慶喜、山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟の書があったらしい。
また、渋沢栄一によると、慶喜の三度の食膳は一汁・一菜・糲飯(玄米)、膳に魚肉を供するは正月三箇日にかぎり、鯛・比目魚・鰹などの刺身、雲丹・海鼠腸、鶏卵の半熟など、日本食の淡泊なもの好んで、酒は保命酒・白葡萄酒・桑酒を飲んだとある。
と、ここまで書いたとき、つい先日福山市に行った友人からお土産として「保命酒」を頂いていたばかりであることに気が付いて、その偶然を一人で驚いている次第である。
それはともかく、こうした食傾向や逸話から、徳川慶喜が蕎麦を好んでいたことは十分考えられる。だから実子の勝精は更科蕎麦をお土産に持参したのであろう。
3.慶喜一家の《しっぽく蕎麦》と《ざる蕎麦》
さて、イトが証言している《しっぽく蕎麦》と《ざる蕎麦》の話に入ろう。
《しっぽく蕎麦》は温かい蕎麦の一つであるが、具がたくさんのっている蕎麦である。もともとは、関西で考案された《卓袱うどん》― 椎茸の煮付、湯葉、板麩、蒲鉾、三つ葉などを載せた ― を、1748-51年頃、日本橋室町の「近江屋」や人形町「万屋」などが《しっぽく蕎麦》として売り出したものだ。具は時代によって少しずつ異なっているようで、『そば手引草』(1775年)には「松茸・椎茸類、薯蕷あるいは大和薯蕷、烏芋、麩および芹の具を加入す」とあるが、幕末には、焼鶏卵、蒲鉾、椎茸、クワイなどを加えていたらしい。慶喜が口にした《しっぽく蕎麦》といえば、イトが語るところによれば、「蕎麦の上に松茸、椎茸、蒲鉾、半熟卵、野菜などが載っていた」。
なにしろ、御前蕎麦「更科」から運ばれてきた蕎麦である。具も汁も上品な味であったろうし、細切だったのだろう。それに装った大平椀も蒔絵を施した美しい食器だったにちがいない。ただ、この《しっぽく蕎麦》は今はほとんど見られない。
《ざる蕎麦》は、1791年ごろの深川洲崎にあった「伊勢屋」が食器を水切れのいい「竹笊」にしたのが最初だ。ただ、イトが言った《ざる》とは「冷たい蕎麦」を指してそう言っただけで、出前された蕎麦が笊に盛られていたわけではないだろう。となると、慶喜家のことだから、立派な器に盛って皆で食べたのであろう。
ともあれ、慶喜家の食卓には新蕎麦と松茸が揃い、屋敷は秋の香に満ちていただろう。旬に合わせて、お土産を持参した勝精の粋な計らいが読み取れるというものだ。
4.最後の将軍
慶喜の、その容貌は貴族的で凛々しく、いかにも武家の棟梁に相応しかった。だが性格は、趣味に対する態度からみても公卿そのものである。
この矛盾が激動の時代と出会ったとき、300年続いた徳川政権の、700年続いた武家政権の最後の将軍の役割を演じることとなった。
しかし、よくよく考えてみれば、「最後の将軍」の称号の価値は重い。慶喜が史上初といっても過言ではない。
戦後、もし誰かが戦争の幕引役を引き受けていたら、今の日本の道はちがっていたのかもしれない、と慶喜の足跡を辿ってみて初めて気が付いた。
☆《しっぽく蕎麦》=2013年の慶喜公没後100年を機に、親しくしている「そば工房 玉江」のご主人に再現してもらった。
写真:http://www.edosobalier-kyokai.jp/koedosobalist.html
〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕