第172話 元禄蕎麦切

     

 ☆元禄時代の蕎麦切

 12月といえば、赤穂義士の討入だ」、と言うのは歴史ファンだけだろうか? 

 その四十七士の中で、とくに有名な男が大石内蔵助と堀部安兵衛だろう。この二人は、かつての常勝軍ジャイアンツの川上監督と長嶋選手のようなコンビではなかったかと思ったりすることがある。なぜなら、名監督・名選手がそろっているチームは強いからだ。その名選手・堀部安兵衛武庸は新潟県新発田市出身、地元ではヒーローだ。

 今年の3月のことだった。ある会の席上で、新発田出身の畑さん(江戸ソバリエ・ルシック)と、新発田で「一寿」という蕎麦店を開業されている板垣さんに声をかけられた。

 ご用は「四十七士が討入前に食べた蕎麦切はどんなもの?」とのご質問だった。その理由は、「元禄蕎麦切が復元できれば、それを武庸祭に役立てたい」ということだった。

 そこで小生は申し上げた。「四十七士が討入前に蕎麦切を食べたかどうか」の史実については詳しくない。ただし、討入事件が起きた元禄時代の蕎麦切はどういうものだったか?」だけはある程度ご紹介できる、と。

1.蕎麦切はいつから?

 お二人のご質問の蕎麦切事情を考える前に、「1.わが国で蕎麦切はいつから食されていたか?」ということと、「2.江戸に蕎麦切屋ができたのはいつからか?」という基本的なことを押さえておいた方がいい。

  先ず、麺全体の歴史を見てみると、素麵、饂飩、冷麦、蕎麦切などの初出は下記の通りであるから、わが国の麵文化は足利時代に花開いたと考えていい。

  1340年、「素麵」の初出

  1352年、「饂飩」の初出

  1405年、「冷麦」の初出

  1450年、「切麦」の初見

  1480年、「そば一いかき」の文字あり

  1574年、「蕎麦切」の初見 ― 定勝寺文書(「番匠作事日記」)

 当然、旧赤穂藩士が討入った元禄151214(1703130)には蕎麦切が存在していたことはいうまでもない。

 2.蕎麦切屋はいつから?

 そもそも日本において、食事を商売にする食堂 ― (1)お金を支払って(2)外で(3)食事をすることは、いつから始まったか?

「(3)食事をする」行為は誰でもすることだが、「(1)お金を支払う」には、資金的余裕がなければならないし、「(2)外で」はそれなりの理由がなければならない。

 こうした条件が叶うのは江戸時代からだ。それまでは貴族、僧侶、武士階級だけが豊かな生活を営んでいたが、彼らは食事は屋敷内で済ませ、外食という概念はほとんどなかった。一方の下層階級である庶民は悲惨な生活のみが強いられ、とてもお金を出して食事をするような余裕はなかった。

 だが、戦国時代が終わって平和になり、貨幣経済が発達すると、町人や下級武士たちもあるていどのゆとりが出て、そのうえ地方の武士たちは参勤交代によって江戸で単身生活をしなければならなくなった。ここに外食ができる環境が整っていったのである。

 具体的には、浅草金竜山待乳山というお寺の前の「奈良茶飯」、大坂・天王寺の「浮瀬亭」、京・八坂神社門前の「二軒茶屋」などが、日本で最初の料理屋であるとされている。年代は1657年ごろ、これが外食屋の初めである。

 蕎麦切屋については、その後から記録が見られる。つまり1660年代から、日本橋や浅草に「けんどん蕎麦」や「正直蕎麦」が営まれ、東海道では「うどん・そばの茶屋」が見られるようになった。

 したがって、旧赤穂藩士が討入った元禄151214(1703130)には江戸に蕎麦切屋が存在していたといえる。

3.元禄151214(1703130)の蕎麦切は?

 それでは元禄年間の蕎麦切はどういうものだったか? 丁度いい史料がある。

 元禄8年刊の人見必大著『本朝食鑑』だが、それにはこうある。(漢字は一部、現代の字で表記)

   実を、杵でついて殻を取り去り、磨いて粉にする。さらに篩にかけて極めて細かい粉末にし、熱湯あるいは水で煉り合わせ、粘堅な平たい丸い餅の形にまとめてから、麺棒で頻りにこねるが、この麺棒には別の粉を撒いて、餅が粘りつかぬようにする。麺棒に巻き手荒く押し固めながら極く薄く押し延したら、パッとひろげ、これを三・四重に畳んで、端より細く切って細筋条にし、沸湯に投じて煮る。長く煮ると硬くなり、少しの間だと軟らかなので、随意に見計らって取り出し、冷水か温湯で洗う。これを蕎麦切という。    

 食べる時は、すすぎ洗い、水を切ってから、つけ汁を用いる。汁は垂れ味噌一升と好い酒五合をかきまぜ、かつおぶしのかけら四、五十銭を加え、半時あまり煮る。ぬる火では宜しくなく、とろ火で煮るのが宜しい。よく煮たら塩・溜醤油で調和し、それから再び温める必要がある。別にだいこん汁・花鰹・山葵・みかんの皮・とうがらし・のり・焼味噌、・梅干などを用意して、蕎麦切および汁に和して食べる。だいこん汁は辛いのが一番よい。―

  この記述について、思うところを「一寿」さんにお伝えしたところ、板垣さんは実際に試作された。その上で実体験から得たものを返してくださった。

 以下が、小生の解釈に板垣さんの注釈を加えたものである。

 1)粉にする

 殻は杵でついて取り、その後に挽き臼で挽いて粉にしている。殻はあるていど取り除いていたと思われる。

2)練る

 「にかけて極めて細かい粉末に」しているが、その細かさは不明。

 加水については、加水率などというような科学的な尺度はなく、経験で「このくらい」の量でやっていただろうが、「熱湯あるいは水で」と、熱湯を先に言っているから、普段は湯練りだったかもしれない。となると、生一本だったということになる。

 とにかく、つなぎについては、この記述からは分からない。つなぎに小麦粉をいつから使うようになったかは明確ではないが、一般的にはもう少し後とされているので、生粉打ち、もしかしたら山芋、鶏卵の可能もある。

3)延す

 「丸い餅の形に」とあるから、いわゆる江戸式がまだ生まれていなかったろう。当然、麺棒は一本、打つときの姿勢も、多くの絵画資料を参考にして想像すれば、当時は座して打っていたと思う。

 とにかく、薄く押し延ばしている。その「薄さ」は分からないが、ほんとうに薄かったとすれば、元禄のころに細い麺ができ上っていたことになる。

4)切る

 「これを三、四重に畳んで、端より細く切って細筋条に」している。「うどん一尺、蕎麦八寸」までいっていたかどうかは分からないが、畳んで切っているということは、食べやすい長さに切る方法が考えられていたということになる。

5 )茹でる

 「長く煮ると硬くなり、少しの間だと軟らかなので」というのはよく分からない。著者、訳者が蕎麦打ちをしないところからくる勘違いだろう。

 とにかく「随意に見計らって取り出し、冷水か温湯で洗う」と「冷水か」を先に書いていますから、一般的には冷水で洗ったのだろう。

 「食べるときはすすぎ洗い、水を切って」から食べる。これは今と同じ。

6 )つけ汁

 興味深いのは「つけ汁」。元禄時代にはすでに麺をつけて食べるという日本独自の食習慣ができていたことが分かる。

 つけ汁は、「垂れ味噌一升と好い酒五合をかきまぜ、鰹節の欠片四、五十銭を加え、半時あまりとろ火で煮る」。

 『料理物語』(1643年刊)には、「垂れ味噌の事、味噌一升に水三升五合を入れて煎じ、三升ほどになったら袋に入れて垂らす」。「生垂れの事、味噌一升に水三升入れて袋に入れ、垂れ越し候也」。「煮ぬきの事、生垂れをして又鰹を入れ、箭じたるを煮ぬきという也」とあるから、『本朝食鑑』の「垂れ味噌」もそれに従い、そうやって汁も作ったようです。また1銭=1匁=3.75gです。 

 要するに、今のように返しと出汁を合わせる方法が確立していない、それ以前の汁というわけです。そうして味が足りなかったら、塩、溜醤油で調和したようだ。

7)役味

 別に大根汁、花鰹、山葵、蜜柑の皮、唐辛子、海苔、焼味噌、梅干などを用意して、蕎麦切および汁に和して食べる」というのは今でいう役味だ。

☆再現料理について

 蕎麦打ちの、「麺棒に巻き手荒く押し固めながら」という記述は、現在と異なる古式のように思えるが、とにかく再現料理は作る方も、食べる方も簡単ではない。たとえば、超高層ビルの洒落たレストランでモダンジャズを耳にしながら食しても、それは再現料理の欠片でしかない。とはいっても、歴史を逆に戻ることはできないから、昔のままの道具や食材を求めることは不可能にちかい。それでも、その〝時代〟の空気を少しでも取り入れなければならない。

 それゆえに、江戸料理研究家の福田浩先生が言われる「再現料理は器(骨董品)から始めよ」という言葉は意味深いと思う。 

 そこで私も、私なりに雰囲気を知りたいと思って、別のところで「元禄武士道」を書いてみた。

 そうすると、〝歴史〟というものが見えてくる。

 たとえば、蕎麦汁である。よく、世間では「今のつゆ(=かえし+出汁)が完成する以前は垂れ味噌だった」の一言で片づけられている。

 しかし、「出汁」がない時代は「出汁以前の出汁的なもの」があったはずである。それが役味ではないかと思う。

 『本朝食鑑』には、「大根汁、花鰹、山葵、蜜柑の皮、唐辛子、海苔、焼味噌、梅干」など多くの薬味が記載されている。

 当時の人間の舌は何を求めていたのだろうか? 

 役味の役割は何だろうか?  

 〔a〕大根汁、山葵、唐辛子、梅干には〝刺激〟がある、

 〔b〕花鰹、陳皮、海苔、焼味噌には〝旨味〟がある。

 当時の人たちは〔a〕刺激か、〔b〕旨味か、まだ迷っていたにちがいない。

 諸外国ではだいたい〔a〕刺激の方へ向かった。

 だが、日本の、江戸初期の人たちは鰹節→〔b〕旨味に魅かれ、やがて後代になって〝出汁〟が開発され、日本の味は〔出汁と醤油〕の傘下に入っていった。― という経過をここで垣間見ることができる。

 だから、「元禄蕎麦切は?」と問われたとき、「それは『本朝食鑑』に載っていますよ」だけでは、軽薄すぎる。

 本当の情報とは、「『元禄蕎麦切』を味わうには、蕎麦切、垂れ味噌、役味のセットで楽しむこと」という当時の姿や雰囲気を伝えてあげることである。

 【元禄江戸蕎麦切 「一寿」作】

参考:人見必大『本朝食鑑』(東洋文庫)、『料理物語』(教育新書)、伊藤汎『つるつる物語』(築地書舘)、ほしひかる『蕎麦談義』(フードボイス)、山本おさむ「そばもん」(『ビッグコミック』02. 12. 25号)、

 〔江戸ソバリエ認定委員長、伝統江戸蕎麦料理編集委員☆ほしひかる〕