第411話 石皿の郷
~ 信州佐久の蕎麦合宿で ~
☆蕎麦合宿
「そば知人塾」を主宰している平林さん(江戸ソバリエ・ルシック)に誘われて、信州・佐久での蕎麦合宿に参加した。彼は、他に「チーム農援隊」や「ウンナンの会」など、それこそ畑から、蕎麦打ち、料理など幅広い活躍をしている人として仲間たちにも一目おかれている。
さて、その日、塾の皆さんは、変わり蕎麦(柚子・芥子・苺・蕗)を打たれ、私が「美味しさとは何か」みたいなことを話し、それから林幸子先生(江戸ソバリエ講師)のご指導により蕎麦つゆや搔揚げの作り方などを一緒に学んだ。
そして、その夜は春日温泉の宿に泊まった。露天風呂の周りには白樺の樹が立ち並んでいた。信州らしい風景だった。
翌日は辺りをドライブして、昼は「職人館」という古民家蕎麦屋さんでお蕎麦を頂いた。
私は、日ごろから「七味」を主とした外国流の《美味しさの構造》論は日本人にはマッチしないから、代わって「主食であるご飯の美味しさ」あるいは「お蕎麦の美味しさ」を中心とした論にすべきと主張しているが、そういう点からいっても、当店のお蕎麦は蕎麦の味のする美味しい蕎麦であった。
お昼前は、中山道の望月の宿、茂田井間の宿を散策した。
宿場町は江戸時代のことであるが、一帯の歴史はそれよりもっと古い。その始まりは10世紀に滋野幸俊という人物が望月に下向してかららしい。それからその孫たちが、各々海野氏、根津氏、望月氏を興し、平安末期には信州屈指の豪族として栄えた。
その一族の一人に海野幸長という男がいた。彼は木曽義仲の参謀になって、後に親鸞の弟子となり、作者不詳といわれるあの『平家物語』の原作者ではないかともいわれている人物である。
また戦国時代の、あの真田氏もこの海野氏の血を引く一族らしい。
マ、これらのことは余談であるが、一帯がいかに歴史ある所かかが分かってもらえれば、それでいい。そんな地の茂田井に大西酒造という酒屋があって、歴史資料館も併設していた。
そこにはわれわれ蕎麦好きには大変興味深い縄文中期の石皿が展示してあったので、以下にご紹介したい。
☆挽臼の話
製粉する「挽臼」が、わが国に伝来したのはいつか?
これは大きな問題であるが、現在のところ蕎麦研究家の伊藤汎先生(江戸ソバリエ講師)やわれわれ江戸ソバリエは、抹茶文化を導入した栄西か、承天寺(福岡)や東福寺(京都)に伝わる「水磨の図」からして円爾が持ち込んだだろう、と解している。
対して、「もっと古くからあったのでは」と主張している人もいるが、それは前・挽臼である溝(目)のない「平臼」のことを言っているのだろう。そのもうひとつ前、つまり前々・挽臼が「石皿」と呼ばれる物である。
物は少し違うが、「擂鉢」も平安時代から存在していたが、それは前・擂鉢のような段階の、溝のない擂鉢であって、溝がある擂鉢は13世紀あたりに登場したとされている。
ということで、溝がある挽臼や擂鉢がわが国に渡来したのは鎌倉時代として間違いないだろう。
そして、それは挽臼や擂鉢や麺や茶などの単品の持込ということではなく、入宋した禅僧たちが、彼の国の点心料理、精進料理をわが国へごっそり導入しようとしたのだと理解した方がいい。
その結果として、わが国で粉食文化、茶文化が花開いたのであるが、それもこの館に展示してある縄文の「石皿」という基礎があってのことだと思う。
詳細は不勉強のため知らないが、縄文時代には、浅間山の麓に多くの人が生活していたという。そんな彼らの生活の道具の一つが「石皿」だった。これで団栗などの実を潰したり粉にしたりしていたのである。
鎌倉以降の粉文化を遡ること数千年前に縄文粉文化が存在していたことをこの「石皿」は明示している。
それにしても、佐久辺りでは何処へ行っても浅間山が見える。イヤ、もしかしたら逆で、いつもわれわれは浅間山に見られていると言った方が正しいのかもしれない。
せっかく来たのだから、浅間山の絵でも描いてみようか・・・。
《参考》
・大西酒造歴史資料館
・花田清輝『小説平家』(講談社文芸文庫)
〔文・絵 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる〕