第421話 国宝 深大寺白鳳仏 奉迎
2017/05/31
~ 白鳳仏入門 ~
平成29年5月21日は、深大寺にとって未来のための第一歩の日となった。
深大寺白鳳仏が「国宝」になって帰還されたのである。
そのため、盛大な奉迎式が行われた。参加された、ある専門家の話によれば、仏像の重要文化財は現在約2,700体、うち国宝は130体。この数字からも、国宝は未来的、世界的にも人類の財産であることを理解してほしいという。
そこで今回は、古代の、特に白鳳仏というのを改めて見なおしてみたいと思う。
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☆それは虫五匹のクーデターから始まった
思うに、私が初めて仏像に恋をしたのは、京都太秦・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だった。灯火のやわらかな光を浴びて半跏するお姿の優しさ、艶やかさに深く感動した私は、すぐにその感銘を写そうと思って版画にしたものだった。
それもそのはず、この弥勒菩薩半跏思惟像は国宝第一号、心魅かれるのに充分価値ある仏像だった。しかも広隆寺は古代豪族の秦河勝が建立したと伝えられる京都最古の寺である。
日本の歴史において、主役の人間像が明確になるのは、飛鳥時代からである、と思う。つまり、飛鳥の主役である推古女帝、摂政・聖徳太子(厩戸皇子)、大臣・蘇我馬子などの動きが具体的なのである。彼らは仏教をもって日本を文化国家に育てようとつとめた。その中心人物である厩戸皇子(聖徳太子)を秦河勝は何かと支援していたらしい。
その飛鳥時代(明日香)に続くのが白鳳時代(明日香)、そして天平時代(平城京)である。
この時代区分は造像様式によるものであり、飛鳥時代と白鳳時代の仏像は見てもすぐ分かるように、大陸から伝わった飛鳥様式が和様化へと変化し始めたのが白鳳仏であるといえよう。また仏像制作においても大和国中心から全国的に広がった時代でもある。
この三時代を分かりやすく分類すれば、こうなるだろう。
Ⅰ.飛鳥(推古女帝・厩戸皇子中心の)時代 = 法隆寺(用明天皇勅願、推古女帝・厩戸皇子建立)が代表
Ⅱ.白鳳(天武天皇・持統女帝中心の)時代 = 薬師寺(天武天皇勅願の寺)が代表
Ⅲ.天平(聖武天皇中心の)時代 = 東大寺が代表
余談であるが、「飛鳥」をなぜ「アスカ」と呼ぶのかというと、「飛ぶ鳥の明日香」と歌われたように「明日香」の枕言葉である「飛ぶ鳥」をとうとう「アスカ」と言うようになったのである。もう一つの「白鳳」が時代区分として使用されたのは明治からであって案外新しい。
その白鳳時代というのは、いわゆる「虫五匹」のクーデターから始まった。それを小説風に紹介すれば、こうなる。
~ 1年半ほど前に聖徳太子の子である山背大兄王が蘇我入鹿に攻め滅ぼされてから、明日香の皇子たちは「今度は自分の番か」と、戦々恐々としていた。
なかでも一番危機感をもっていたのは中大兄皇子であった。「兄の古人大兄皇子は入鹿と仲がいい。だが、自分の身はこのままだと危ない!」
皇子の不安をついて、ある企てを提案してきたのが、中臣鎌足だった。
その企てとは・・・?
645年6月24日、朝から梅雨降りしきる日、三韓の使節を迎える儀式のために豪族たちが皇極殿に集まった。最後に入鹿が入ると宮の門は閉じられ、護衛官が入鹿の剣を預かった。
殿内の大きな柱の陰には、中大兄皇子・中臣鎌足・佐伯子麻呂・犬養網田の四人が隠れていた。
このことは蘇我倉山田石川麻呂以外、誰も知らない。
儀式が始まった。
入鹿は、三韓からの表文を厳かに捧読している石川麻呂を見た。すると石川麻呂の手が微かに震えている。「フン。厳かそうに見えたが、震えておるのか。気の小さい奴じゃ」と視線を戻した。
それを見ていた鎌足は「今だ!」と判断した。だが、まだ19歳の中大兄皇子は緊張のあまり真っ青な顔をして反吐を出す寸前である。鎌足は31歳。落ち着いた声で「きっと上手くいきます」と力強く耳打ちし、皇子の背中を押した。
皇子と子麻呂と網田の三名の刺客は剣を抜いて、入鹿に向かって突進していった。
鎌足も、その場で矢をつがえ、構えた。その矢先は、果たして入鹿だったのか、皇子だったのか、今となっては分からない。もし襲撃に失敗していたら、矢は中大兄皇子に向かって放たれたのかもしれなかった。~
これが子供のころ、「645年、虫五匹」と覚えなさいと叱咤されたところの古代明日香のクーデター劇である。
これによって、古代中央集権国家が形成され、以後日本は仏教文化の花を咲かせることになったのである。
☆古寺巡礼のテキスト
古寺巡りをしようというとき、テキストがあることが望ましい。「ネット時代の現代は山のように情報があふれているではないか」というが、それは雑識データであってテキストではない。テキストというのは、先見性と正しい指導性がなくてはならない。
そういう意味では、古寺巡りの優れたテキストとしては、和辻哲郎の『古寺巡礼』と亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』をおいて他にないだろう。
『古寺巡礼』は哲郎30歳のとき(大正七年)の、大和付近の古寺巡り印象記である。本人は「若いころの拙い文」と恥じていたが、出征兵たちから「生きて還ることも難しいのなら、せめて一生の思い出として大和古寺を巡りたい。その参考書として『古寺巡礼』がほしい」との要望が多く寄せられた本として、語り草になっている。それだけ人の心に響くものだったのであるが、多くの人は「哲郎の若い情熱がそうさせた」と理解している。
しかし、私がとくに傾聴したいのは、次の父と子のやりとりである。
「お前の今やっていることは道のためにどれだけ役にたつのか、退廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献することができるのか」
哲郎の父は道を守ることに強い情熱を持った人であり、「医は人術なり」を片時も忘れず、その実行のために自己の福利と安逸とを捨てて顧みない人であったという。
哲郎は、そんな父のこのような問いを発する心持に対して、頭を下げないではいられなかったと述べている。
父は愛息を叱咤激励したのだろう。それに息子は見事に応え、この書では人類にとって大切な財産、すなわち【国宝】の大切さを訴え、後には日本色をもった哲学者として大成したのである。
古寺巡りのテキストとして、これ以上のものはないだろう。
☆豊頬の白鳳仏
『大和古寺風物詩』は、勝一郎が36歳(昭和18年)のときに上梓した奈良旅行の紀行文である。勝一郎は大和の薬師寺などを訪れ、白鳳仏について考え始めた。
そして後の『古典美への旅』では深大寺を訪れ、白鳳仏を〝豊頬〟の美として明らかにし、また深大寺白鳳仏は、薬師三尊(薬師寺)、聖観音(薬師寺)、橘夫人念持仏(法隆寺)、夢違観音(法隆寺)と同じ白鳳仏に比べても「柔らかく、優しい」と述べ、「新薬師寺の香薬師と兄弟ではないか」と指摘した。
そこで、仏像の作家は誰か? という問題になるが、和辻哲郎は大きい寺には必ず優れた彫刻家、あるいは彫刻家群がいたとしている。
考えてみれば、今の武蔵野一帯は、武蔵国の国府、国分寺を含め古代武蔵国の中心地であった。
そこで、関連する出来事を下記のように年表にしてみると、外来の仏教が次第に浸透し、国じゅうが国分寺建立に向かって胎動しつつあった情景が見えてくる。ゆえに、ある技術集団が深大寺の白鳳仏「釈迦如来椅像」を造っている光景も描くことができようというものだ。
そんな想像を刺激させてくれる、『大和古寺風物詩』と『古典美への旅』は白鳳仏のテキストとして最高であろう。
◎白鳳時代
645年 虫五匹のクーデター
684年 百済僧ら23人を武蔵国に置く。
687年 新羅僧ら22人を武蔵国に置く。
690年 新羅人12人を武蔵国に置く。
◎天平時代
710年 平城遷都
716年 高麗人1,799人を武蔵国に移す。
722年 元正女帝、蕎麦などの栽培の詔を発す。
732年 満功上人、深大寺を開創する。
741年 国分寺建立の詔を発す。
ところで、仏教史としては余談になるが、われわれ江戸ソバリエが一番気になるのが元正女帝である。この時期に彼女は、飢饉に備えて晩稲・大麦・小麦・蕎麦の栽培をすすめる詔を発している。
それゆえに「蕎麦の神様」ともいわれる女帝であったが、独身で、美貌の彼女は天武天皇(父方)と天智天皇(母方)を祖父とする血統書付きの女帝であった。おそらく、命令は厳守され、武蔵国でも蕎麦栽培が行なわれたことだろう。
最後になるが、武蔵野に約30年住んでいた亀井勝一郎は、度々深大寺を訪れて蕎麦を食べていることを『蕎麦談義』としては付記しておかなければなるまい。
《参考》
*和辻哲郎『古寺巡礼』(岩波文庫)
*亀井勝一郎『大和古寺風物詩』(旺文社文庫)
*『続日本紀』(講談社学術文庫)
*元正女帝(氷高皇女)について、小生は小説「蕎麦を愛した氷高皇女」を『日本そば新聞』(平成17年)で発表したことがある。
〔文・版画 ☆ 深大寺そば学院 學監 ほしひかる〕