第431話 日本は、オモテナシの国ですか?

     

~ BLACK TRAIN ♪ ~

 アメリカのSFやNYの歩道でキャリーバッグを押していると、道を行き交う人は大きく避けてくれる。
日本の東京でキャリーバッグを引いて電車に乗ろうとしても、入口に立っている人は先住権を主張するかのように絶対にどいてくれない。
韓国ソウルで電車に乗ったとき、数名の若者がサッと席を譲ってくれた。
東京で電車に乗ったとき、席を譲ってくれたのは外国からの旅行者だった。私の目前に座っていた若い女性は微動だにしなかった。
外国から帰ってきた直後には「どうしてこうなんだろう」と一人前に憤慨したりするが、暫くするとそんな新鮮な思いも忘れてしまって、自分もその中で安住していることになってる。
でも、テレビなどで「日本はオモテナシの国だ」と言っていると、「そうだろうか?」との疑いが再びムクムクと頭をもたげてくる。
そこで、つらつら考えてみると、日本人が、とくに不特定多数の人に対してソンタクしなかったり、オモテナシ感を無視するのは、幾つかのグラウンドがあると思うに至った。

一つは、「宴会」である。
これは時々申上げていることだが、日本には宮廷料理はないも同然であった。あるのは、臣下がお殿様を自邸に招いて接待する本膳料理である。
外国での宮廷料理はたいてい社交・外交であるからマナーが重視される。その点、部下の家で接待された上司は「客であるおれ様がどう喰おうと勝手だろう。部下のお前がうるさく言うことはない」とふんぞり返って言ったのであろう。だから日本では食のマナーは生まれなかった。
今や世界に冠たる和食の誕生はこの時代のことであるが、残念ながらこのグラウンドは、上に立つ者の身勝手な自己中心と下の者の追従であって、オモテナシの空気はどこにもない。
二つは、「」の思想である。
日本文化の代表ともいえる、華道、茶道、能、剣道など「道」と称するものは、禅の影響から精神的な要素が多い。たとえば剣道においては「剣禅一致」といったりするように、「‘道’とは修行の道半ばの道、すなわち自己確立の途中ということである。」などと渋い顔をして言われたりするが、それは人様とは隔離された山奥での修行と何ら変わりない。
そのグラウンドは、どう見ても自己が主役であって、相手を思うオモテナシの片鱗はどこにも見られない。これが日本文化の本質なのである。

ここまでは、日本人の歴史的な深層部分である。
その上に昭和・平成の現代社会世相が相乗りした。すなわち、
三つとして、「」の思想の喪失である。
「労使対決」時代の代表だった国労が何や彼やと言われて潰されようとしたころ、同時に「民営化」礼讃の大合唱が沸き起こり、昭和62年に国鉄が㈱JRとなった。そして後には郵政民営化も進められた。このとき反対する者たちに投げられた言葉が「対抗勢力」ではなく「抵抗勢力」であった。「対抗」は対等な勢力、「抵抗」は無駄な抵抗をする輩という上から目線であった。施政側は、シナリオ通りに民営化を実現したが、同時に日本人から‘公共意識’が薄れていった。
こうして会社とか組織・団体が自社中心になると、皺寄せは必ず個人に及ぶ。そのときの押付けられる価値観はいつも「自己責任」である。
たとえば、公共施設や公園などの公の場所で、自分たちで使用した後のゴミは自己責任で持ち帰ることと言われ出した。日本人は素直だから、「それもそうだ」と従っているうちに、それがマナーと認識するようになった。これは強いられた善意であるが、そのためにわれわれは‘公’でどうふるまうべきかを考える余地を喪失してしまったのである。
四つとして、「コンビニ」の影響である。
コンビニは、いつでもどこでも同じ‘’を同じように販売する。
しかし、そうしているうちに人間の方も「いつでもどこでも同じ‘’」になっていった。
映画『百円の恋』ではコンビニで働く虚しさがよく描かれていた。だから、女性の主人公は激しく殴りあう動物のようなボクサーの道を選んだ。痛い! 血が流れる! 腫れ上がる! でも人間的だった。
かつて、スーパーという店舗形態が登場したときは人間への影響は少なかった。だが、コンビニは人間を変えてしまった。みんな同じ物、同じ者の世界の中にいる。だから、店員・駅員・社員は客の顔を見なくて済む、カウンターから出てこなくて済む、言葉遣いも皆同じになった。
そんな中から出てきたのが、たとえば「こちらがコーヒーに成ります」だった。その筋の専門家は「コンビニ・ファミレス敬語」と称している。どういうことかというと、コンビニやファミレスのバイト店員や非正規社員は即戦力という名のもとにすぐ現場に立たされるのか、言葉の使い方を知らない。「コーヒーです」と差し出すと、客に「乱暴な言葉だナ」と怒られる。怒鳴られるのは嫌だ。かといって「コーヒーでございます」なんて、愛社精神が欠如した束の間のバイトの身で使う気は毛頭ない。というわけで生まれたのが、意味不明の「コーヒーに成ります」だった。岩波辞典ではこれを、「1980年ごろから広まった俗用としているが、俗語ほど広まりやすい。あっという間にあらゆる職種に広がり「次は成増になります」なんていう失笑もののアナウンスが電車内で流れたりするようになった。
もはや、日本は自己中心も、オモテナシの片鱗も見られない薄っぺらな社会になった。
さて、どうしたらいいのだろうか?

・・・・・・と、「蕎麦談義」としては珍しく尖った内容になったのは、長淵剛の突っ張った歌「BLACK TRAIN♪」を聞きながら書いたせいだろうか。
そう思いながら、一旦中断したころ、大阪に行く機会が訪れた。
着いた大阪駅でハタと気付いたことがあった。
駅員さんたちは改札口まで数名が出ていた。そして顔を向けて会話をし、適格に案内をしてくれる。
どうやら、いつでもどこでも同じ駅員は首都圏だけのようだった。
なぜかホッとした。
 前に出よう♪
顔を見て話そう♪
それだけでオモテナシになる。そう思った。
帰ってから、改めて「BLACK TRAIN♪」を聞いた。いまどき珍しく男っぽい歌だ。

《参考》
*武正晴 監督『百円の恋』
*長淵剛「BLACK TRAIN」

〔文・挿絵作品 ☆ エッセイスト ほしひかる