第204話 江戸蕎麦めぐり⑧
「一茶庵」を歩く 《蕎麦膳》十一
「私に何ができるか?」
時々、蕎麦についてお話をしなければならないことがあるが、そういう場合にそう自問することがある。
先日、「一茶庵」の略史を話さなければならなかったときも、やはり自問してみた。
なぜなら、蕎麦好きの方は、老舗の蕎麦屋さんの歴史ぐらいご存知だから、話す側としては「さらにどうあればいいか」というわけだ。
そんなことを念頭において、まずは「一茶庵略史」を見てみよう。
「一茶庵」の創業者片倉康雄は、子供のころ母が打ってくれた蕎麦だけをたよりに、新宿駅東口前の「食堂横町」で開業した。大正15年2月3日だった。
蕎麦人から見れば、この「2月3日」という日は縁起がいい。なぜなら、江戸蕎麦切初見の記事(『慈性日記』)がこの日だからである。
それはさておき、そのときの彼の年令は弱冠21歳。創業者には得てしてこういう無謀なスタートがある。
そんな猛進する若者を見かねてか、高岸拓川という文士が近づいてきた。康雄は、彼から当時の蕎麦打名人村瀬忠太郎(「やぶ忠」店主)を紹介されたりしているうちに本物の蕎麦に目覚めていき、さらに「星岡茶寮」の北大路魯山人と出会い、旨い食べ物の全像をつかんでいった。
そして昭和8年鷲神社近くへ移転、ここで「一茶庵流蕎麦」が生まれることになる。ただ、後に大森店は戦争のためやむなく一時閉店せざるを得なかった。そして、昭和29年に足利市にて「一茶庵」を再開し、蕎麦世界では「足利詣」という言葉が生まれるほどになる。
続いて、昭和47年上野「東天紅」で多田鉄之助らと「日本そば大学講座」開講、その後に中野坂上で「片倉友蕎子そば教室」を開くが、この「教室」というシステムが蕎麦業界を変えていくことになったのは、現在の「蕎麦打教室」の盛況ぶりを見ればお分かりだろう。
さて、「自分らしさ」を出すためには、自分の眼で確かめるのが一番いいだろう。そう思って、さらに片倉康雄の足跡を巡ってみることにした。
先ずは、誕生の地・加須市。次が、新宿駅東口前の「食堂横町」。ところが、この「食堂横町」というのが分からない。いろいろな資料を漁っていたら、やっと駅前地図に「食堂横町」と記している資料を探し当てた。そこは現在、電気器具の量販店となっている所である。
そういえば、50年ちかくの昔、反対側の西口にも食堂横丁があった。一度だけモノは試しと食べたことがあるが、天ぷらの野菜は雑草ではないかと思われるほどに正体不明、味噌汁は文字通り味噌汁のみ。とにかく気持が悪かった。失礼だけど、大正15年の東口食堂横町も似たり寄ったりではなかったかと想像する。
そんな処で商っていたが故に、無謀と自信とが交じったような康雄の不敵な面構えが見えてくるようだった。
案の定というべきか、野心満々の彼は新宿から大森の鷲神社近くへと移転した。「鷲神社の近く」というのは、調べたところ大田区大森北1丁目23~24番だったらしい。ただし、今の大田区役所は古いものはまったく残っていないというから、これ以上の詳細はつかめない。
歩いてみると、辺りには老舗の海苔店などが見られる。海にも近いことから、たぶん海産物なども豊かであったろうし、片倉の新鮮な食材を買い求める姿も見受けられただろう。康雄は見事に脱皮したのである。
それから、足利、上野東天紅、中野坂上、さらには拓川の墓、「やぶ忠」跡と歩き、そして現在の「星岡茶寮」で昼食をとった。
その結果、後に「蕎聖」といわれるまでになった片倉康雄が、蛹から蝶へと華麗なる変身を遂げようとした25歳から28歳までの新宿時代は夢をつかもうとして一番ギラギラしていた年であったろう。そして大森時代は夢に向かって苦闘を続けることになったのだろうことを確信した。
そんなころの彼を小説にすれば、面白いものになるのかもしれない。 と、自分なりの片倉康雄像を描いてから、私は「一茶庵略史」をお客さんの前でしゃべったのであった。もちろん私の話し方は下手なので、「蕎聖片倉康雄伝」にはほど遠いものになってしまったことはいうまでもない。
参考:江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)、ほしひかる「暖簾めぐり」(『蕎麦春秋』)、
《 蕎麦膳 》シリーズ(第204、190、189、180、176、171、170、166、157、154、153、150話)
〔「朝日カルチャーセンター野外講座」より☆ほしひかる〕