第481話 紫禁城へ行こう

     

北京紀行-1

外務省の「日中国交回復45周年・日中平和友好条約締結40周年」認定事業として、平成30年3月私たち北京プロジェクト(※)は、①中日蕎麦学セミナーに参加し、②北京の海淀実験学校の中学生と、③北京外国語大学の大学生に蕎麦の講演と蕎麦打ち体験指導を行ってきた。
北京では毎日が忙しく、やっと帰国の日の午前中だけ時間の余裕ができたので、紫禁城を見学することにした。

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日本のことを歴史的視点から知ろうとするなら、現代と近代の接点である明治維新を学ぶのが一番のコツであると思う。
同様に、中国・北京のことを分かろうとするなら、現代と近代の接点である紫禁城のことを知るのが早道である。
紫禁城というのは、いわずとしれた明・清朝の城である。明朝は最初南京を首都としていたが、三代永楽帝のとき、前代の元朝の都(元朝時代は大都と称していた)であった現在の北京に移して紫禁城を築いた。
紫禁城の話といえば、清朝最後の12代皇帝愛新覚羅溥儀の一生を描いた映画『ラストエンペラー』も面白かった。日本でいえば、徳川幕府最後の15代将軍慶喜と同じように時代の転換点に生きた人だというわけだ。
ところで、中国では皇帝を【北極星】の如くとし、官吏を「紫微垣」と呼ばれる東西二列に並ぶ龍座・ケフェス座・カシオペア座・大隈座に見立てている。
紫禁城の名前は、この「紫微垣」の‘’と、人民に対して近づくことを禁止する‘’の意が由来である。まさに、城の名前に中国皇帝の思想が込められているというわけである。

その紫禁城の主たる宮殿は中軸線上に建っている。だから、これさえ押さえておけば城は理解できる。
先ずは、南にある紫禁城正門の午門からわれわれ観光客たちは入る。むろん往年の臣下たちもそうであった。
入城したとたん、城の広大さと、威圧感に脚が竦む。
続いて外朝の門太和門。この中に城の中心である太和殿、皇帝の休憩所中和殿保和殿がある。和殿が三棟あるところに意味があるのだろう。
次が内廷の正門乾清門。ここには明朝の皇帝と皇后の寝宮乾清殿、明朝の皇后の居室交泰殿、明朝皇后の寝宮坤寧宮が囲まれてある。
そして坤寧門を出ると憩いの御花園がある。
中軸線上に存在する宮殿は左右対象にした荘厳な建築物であるが、他にも建物はたくさんある。西洋の城も左右対象ではあるが、中国の場合は徹底していて主たる建物はこの線上になければならないというから、【主軸】線という考え方を貫き通すところが中国の思想であろう。
それから、最後の神武門を出て、堀を渡ると景山公園である。明・清朝の皇帝の庭園となった山であり、堀を掘った時の残土で峰を造成した。これは背山面水という風水の考え方を実現したものである。また東南の山麓には明朝最後の皇帝である第17代崇禎帝が李自成軍に攻められ、首吊り自殺をした槐の木がある。
かくて明朝は滅亡し、紫禁城は清朝が主となった
その清朝初期のころに越前国の日本人が漂流して清朝に拿捕されたことがあった。北京に連行された彼らに与えられた食事の中には‘蕎麦’があったことを『韃靼漂流記』に記録されている。私は、蕎麦のルーツが中国の四川・雲南から北方の内モンゴルへ向かい、朝鮮半島を経由して、日本へ伝来していることから、大陸の北方民族であった満州民族が蕎麦を食していたという史実に大いなる関心をもった。そこで清朝創世記のことと漂流した彼らを掛け合わせて平成24年6月~25年6月まで、月刊紙『日本そば新聞』に『紫禁城の夜明け』という短編小説を13回にわたって連載した。
小説を書くということは、紫禁城について熟慮しなければならないところがある。その手段として絵を描くことも一助となる。
しかしながら、故宮を紹介する写真は南から撮った写真が多い。だがそれは臣下が皇帝を仰ぎ見る目である。「皇帝は北に位置し、南を向いて権威を示す」という中国皇帝の思想からいえば、景山の頂上に建つ万春亭から紫禁城を望む方が正しい。別添の絵がそれである。
ただ、小生は板に絵具を塗っているため、板の目に邪魔されて真っ直ぐの線が引けなかったから、何だか頼りない城になってしまった(苦笑)。それでも全景を望むという観方だけはご理解頂きたい。
明・清の歴代皇帝は北から、南に平伏す臣下たちや、その先にいる庶民たちを見ていたし、あるいはさらに遠方の世界を見ていたのである。

さて、話は2017年の秋に飛ぶが、習主席はこの故宮(紫禁城)を貸し切った。習主席でなければできない方法で、訪中のトランプ大統領を歓待した。。
報道によると、習主席はトランプ大統領に「故宮は、中国の歴史文化を理解する上で不可欠の窓だ」と説明しながら案内し、紫禁城の太和殿で京劇を観て、宝蘊楼で中国茶会を催し、三希堂で首脳会談を行った。アメリカは大統領制、だから支持層の気に入る政策をとらないかぎり大統領はたちゆかない。一方の中国では重要産業は国営企業が担っている。だから国有企業が世界競争で負けるわけにはいかない。経済大国世界一位と二位の貿易戦争は死闘そのものである。その後の建福宮での晩餐会では、首脳は笑顔であっても、その心の中は不明である。それが外交である
この日の、習主席がトランプ大統領を接待した晩餐会のメニューはどのようなものだったのだろうか?
そういえば、明朝代の宮廷料理には《北京烤鴨》が加わり、清朝代は《満漢全席》が考案された。
このような宮廷料理は、中国にも、お隣の朝鮮にも、琉球にもあったが、わが日本には宮廷料理はなかった。
外交に晩餐会は付き物である。日本文化に適した晩餐会が望まれるところであると思う。

江戸ソバリエ北京プロジェクト
 寺西恭子・平林知人・高橋正・北川育子・佐藤悦子・赤尾吉一・菊地佳重子・ほしひかる

〔文・挿絵(紫禁城) ☆ 江戸ソバリエ北京プロジェクト ほしひかる〕