第488話 連載小説『蕎麦夜噺』を終えて
~ 江戸蕎麦を学ぶ ~
平成30年5月で、あしかけ15年(通算165ケ月)書き続けた小説『蕎麦夜噺』を幕にした。平成16年9月号の『日本そば新聞』に「第一夜」を掲載し始めてから通算165回の連載である。といっても、その一編一編は短いのも長いのもあったから小説としては44作品であった。
最初は「第一夜」として、佐賀に伝わる民話「山姥が遺した赤い蕎麦」からスタートした。植物としての蕎麦は、「大陸 → 朝鮮半島 → 対馬 → 北部九州上陸 → 本州北上」をなしたとされているから格好の材料だった。なので、この民話を縄文時代の話として書き上げた。
後日談であるが、その史実を補足するようなことがあった。昨年だった。寺方蕎麦研究会の小林尚人さんから朝鮮の民話のコピーを頂いた。読むと佐賀のこの民話とそっくりだった。私は、蕎麦の「→ 朝鮮半島 → 対馬 → 北部九州上陸 →」説にますます自信をもった次第である。
以降は、蕎麦史上の重要人物をターゲットにした。
蕎麦栽培詔の元正女帝、石臼をわが国に初めて持ち込んだ円爾、蕎麦切初見の定勝寺の金永、江戸蕎麦切初出の常明寺と慈性、「蕎麦は江戸の水に合う」と予言した松尾芭蕉、「蕎麦は江戸を盛美とする」と詠じた重政と道光庵など・・・。
元正女帝を書くにあたっては、何度も飛鳥に足を運んでいたから時代背景はまちがいないと考えている。さらには「修験者役小角」のことも加えた。これは私が体験したミニ修行を取り入れたから、リアルにできていると思う。
《深大寺蕎麦》や徳川慶喜が食した《しっぽく蕎麦》を再現したことは、自分自身の財産となった。
こうして蕎麦の歴史を追ったから、当然寺方蕎麦ゆかりの寺院はくまなく訪問し、網羅したつもりである。
〔和食の本質〕という視点からは、和食の思想家といわれる栄西の『喫茶養生記』と、道元の『典座教訓』『赴粥飯法』、そして和食の特質である‘切る’料理の聖典『四條流庖丁式』はどうしても書きたいことであった。とくに『庖丁式』は連載10回にのぼったが、室町時代の庖丁の流派について書いたものは他にないと自負している作品である。それから日本の食に冷たいものがあることを注視した「ルイス・フロイス」のことも触れた。
また蕎麦に関する〔伝説〕〔文学〕〔浮世絵〕も採り上げた。「澤蔵司稲荷(蕎麦稲荷)伝説」「蕎麦喰地蔵伝説」「蕎麦閻魔伝説」、太田南畝「蕎麦の記」、恋川春町『化物大江山』、十返舎一九『木曽街道膝栗毛』、広重『江戸名所百景』、北斎『東海道五十三次』、栄里『三都美人図』、池大雅と簫白、重政の『絵本浅紫』、雪旦の『江戸名所図会』について描いた。
その他に、『元禄武士道』は、赤穂浪士の奮戦をスポーツのように描いてみた。その手法が読者にも分かったのか、はっきりと「スポーツのように面白かった」との声を頂いた。
海外体験から書いた『韃靼漂流記』(連載11回)、「咸臨丸」(連載9回)と「岩倉使節団」(連載22回)の渡米については、国境なき江戸ソバリエとして力作だと思っている。ただ、最後の岩倉使節団のことを書いた『世紀の舵取』は、もっと長いものであった。しかし連載が2年にわたっているので、このままでは3年にもおよぶため、『日本そば新聞』様に申訳なく思ってカットした。
実は、この欧米派遣の企画は佐賀藩の大隈重信が立案したものであった。それがいつのまにか岩倉具視や大久保利通の手に渡って実行され、日本は大久保利通の舵取に委ねられたのである。ただし、記録係は佐賀藩の久米邦武に与えられた。それが岩波文庫の『遣米欧回覧実記』(全5冊)である。
しかし、「咸臨丸」や「岩倉使節団」などの幕末物を書いてみて、明治維新の目的は、日本の政治、経済、文化の独立を全うするはずだったのに、欧米を模倣することに熱中するあまり、わが国は日本らしさを失ったとの感想をもつにいたった。
だから、途中で明治以降のことも書いた。和の文化を見つめなおしている人たちがいることに感銘したからであり、ここが私の一番云いたかったことであった。それが谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』、九鬼周造の『粋の構造』、それに青木正児の『陶然亭』である。
これらは史実と関係のない私小説風に書いたが、その拙い文よりも、蕎麦ないしは江戸蕎麦を学ぶことによって、和の文化を見つめ直す機会ができたことはまことに喜ばしいと思っている。
〔文・挿絵 ☆ 小説『蕎麦夜噺』作者 ほしひかる〕