第570話 遊女と蕎麦
蕎麦と歌舞伎と浮世絵と
‘平成最後の大歌舞伎 掉尾を飾る大顔合わせ’と銘打った『四月大歌舞伎』を観に行った。
入口を入ると、ホールに富司純子さんと寺島しのぶさん母娘が立っておられた。たぶんご家族の方が今日の舞台に出演されるのだろう。
それにしても彼女は立っているだけで絵になっている。私とほぼ同年代だが、若い頃の映画『緋牡丹博徒』そのものの粋な方だと感嘆した。
今宵の演目は片岡仁左衛門の「実盛物語」、市川猿之助の「黒塚」、中村鴈治郎の「二人夕霧」、わけても市川猿之助の「黒塚」は圧巻だった。
テレビ・ドラマなどでは人間関係の細かい遣り取りが上手く描かれるが、舞台劇というものはダイナミックな展開物や、今宵の「黒塚」のような妖怪物は観ていてワクワクする。
ところで、今宵の観劇で、ある発見があった。
それは「二人夕霧」の場だった。舞台は大坂新町の花街。この大坂新町と、京の島原と江戸吉原は揃って江戸時代の「三大花街」といわれていた。
新町は豊臣大坂城築城の頃は砂置場だった。その砂場に普請奉行前野長康の管理下の人夫のための賄飯屋「津国屋」「和泉屋」があった。そこで飯やら、蕎麦やらが供されたのだろう。
江戸時代になると、砂場は新町の「花街」となったが、そこで砂場の「津国屋」「和泉屋」は蕎麦屋を営み始めた。当然、店の発祥は「砂場時代」ということになり、それが老舗蕎麦屋「砂場」の発祥伝説へと発展した。
さて、今宵の舞台は、その新町の夕霧という遊女の話だが、物語の方は割愛するとして、夕霧役の女形中村魁春が私の発見の対象だった。
何と、魁春の遊女は首を前に突き出した恰好なのである。
私は前から、浮世絵には首を前に突き出した人物絵がかなりあると思っていた。例えば、写楽画の三代目大谷鬼次演じる「奴江戸兵衛」などであるが、今日はその謎が生で舞台の上で泣いて笑っているのである。
そこで思った。もしかしたら、昔の日本人はこういう恰好をした人がたくさんいたのだろうか?
そんなバカなとお思いの方もいるかもしれない。だが、明治の欧化以前は現在と人種が違うぐらいの差異はたくさんあった。
例えば、いま私たちは真っ直ぐ前向き姿勢で走るけれど、江戸時代以前は蟹みたいに横向きで走っていた。ということなどは昔はたまに言う人もいたが、今そんな説を唱える人は誰もいなくなった。言えば「何をバカなことを言ってんの」と一笑されるぐらいが落ちだろう。
だが、観察鋭くしていれば、現実の目の前に化石のようなものが転がっているのは何も考古学遺跡の世界ばかりではない。人間社会にも化石化があると思う。その発見が面白い。
さてさて、先に大坂新町が「砂場」誕生の地だと申上げた。
その血筋だといわれる「虎の門砂場」の二階には、栄里という浮世絵師が描いた「京三條砂場於万」という絵が飾ってある。
これは『三ケ津草嫁美人合』シリーズの三枚の内の一枚である。他は「大坂道頓堀於菊」と「江戸両国於辰」である。「三ケ津」とは京・坂・江の三都のこと、そして「草嫁」とは夜鷹のこと。すなわち三都の遊女美人画というわけである。ここまでは事実である。
しかし、店主にうかがっても絵がここにある経緯も理由もわからないという。
それにしても、江戸は両国の「於辰」、大坂は道頓堀の「於菊」、なぜ京の三條だけ「砂場の於万」という名だろう?
そこで私は、「虎の門砂場」の絵を観ながら、妄想した。
京三條に「砂場」があったのだろうか?
それとも、於万は「砂場」があった新町出身なのだろうか?
しかし、京三條に「砂場」があったというだけでは単純すぎる。
やはりここは後者ということにして物語を作り、『日本そば新聞』に三ケ月連載した。
執筆しながら、また考えた。三都の遊女と蕎麦を結ぶ話は結構ある。そもそもが日本における蕎麦店の始まりは、日本橋と浅草の花街であった。つまり、遊女と蕎麦のつながりは強い。
その関係は、昭和の高度成長の頃、銀座のホステスさんたちが、軽い食事をとって、一服して、歯を磨いてから、お客の前に出る様子と似てはしないか。
とすれば、江戸時代の蕎麦・寿し・天麩羅はやっぱり軽食だった。
翌日の昼、蕎麦を食べた。ふとガラスに映った自分を見ると、首を前に出して啜っていた。
〔文 ☆ エッセイスト ほしひかる〕
浮世絵 英里画「京三條砂場於万」