第597話 北京・貴州紀行3
~けものたちは故郷をめざす~
蕎麦に関わっていると、和食の概念をきちんともっていなければならない。
だから私も、「和食とは武家の時代の食べ物」であると、述べてきた。つまり、和食は鎌倉時代の道元に始まって室町時代に完成、江戸時代になって蕎麦・鰻の蒲焼・天麩羅・寿司などが独自に発展し、一般人にまで広がった。
これをより詳しく述べれば日本の食べ物史になるから、ここでは割愛するが、とにかく明治維新によって洋食が本格的に入ってくるまで和食時代は続いた。
そこで、その時代の主役であった「武士」というものが気になってくる。
1.なぜ武士は鎌倉時代の東国で生まれたのか?
2.なぜ武士は江戸時代に官僚へ生まれ変わることができたのか?
3.なぜ明治維新は薩長土肥の西日本人が主役になったのか?
こんな疑問をもつのは私一人ではないと思う。
それを今まで述べてきたY染色体の眼鏡で見てみよう。
日本人は、Y染色体ハプログループ‘D’‘C’‘O’が多いという。
これについては、そう簡単に解説することではできないし、またその能力もないが、思い切って断じれば、‘D’は縄文人タイプ、‘C’はモンゴル人シベリア狩猟民族に多く、‘O’は東アジアに多いらしい。そして、西日本には‘O’が多く、弥生人タイプともよべるし、東日本には‘D’が多く、縄文人タイプともいえるらしい。ちなみに‘D’は組織力に優れ、‘O’は創造力があるという。
とすると、上下関係に厳しい組織人である鎌倉武士や徳川官僚が東日本で立ち上がってうまくいったのも頷ける。信長は全国統一するだけ、秀吉は自分の出世だけを願っていたから、そこまでは考えてなかっただろうが、頼朝を尊敬していた家康は武家政権を明確に意識していたから、それを発揮できるのは江戸だと考えたにちがいない。もし家康がこれまで通り近畿を首都としていたら失敗していただろうし、徳川幕府が鎖国政策をとったのも当然である。異質な者を受け入れない管理体制を作ろうとしたからだ、
しかし、やがては280年続いた‘D’の徳川幕府も制度的に錆ついた。そのとき日本を再生させたのは、今度は自由な創造力をもつ西日本‘O’の薩長土肥だったという訳である。
よく、ノーベル賞はなぜ西日本人が多く受賞するのかといわれるが、それは上記ののようなことと一致していると思う。
また関東人は並ぶのが好きだという話もY染色体ハプログループの眼鏡で見れば、よく理解できる。団体行動上、まことにマナーがいいというわけである。しかしコンビニなどで「ここで待て」と言わんばかりに、足跡を描いてあったりすると、それは自主的なマナーではなく、もはや強制にちかくなる。それに従わない場合は、異物として排除されかねない。その際によく使われる常套文句が「他のお客様にご迷惑がかかります」である。ここまで述べれば、いじめ、パワハラや、外国人や難民などを受け入れるか、受け入れないかという問題も見えてくるだろう。しかし、こういう団体行動タイプは非常事態のときには望ましい。一糸乱れぬ行動をとれるからである。だからといって、どちらがいいとか悪いとか判断できない。
イギリスの産業革命以来、今までは、
①比較的同種同族で活動できた。
②経済が順調で明日に希望があった。
③マスメディアがフェイクニュースを許さなかった。
しかしながら、そのすべてをインターネットの普及と地球温暖化が破壊し、今や混沌の世紀に入ってきたことは皆が感じるところである。
①民族の問題
②経済の真価
③情報の功罪
こういう時、日本人の性格‘D’‘C’‘O’のルーツである、中国大陸の北方と南方に行ってみようか、と思ったりする。
前回の訪中の折には北方を訪れ、北方がどういう所でどういう人たちがどういう生活をしているかを観た。今回は南方を訪れる予定であるからこの目でそれを見てきたい。
そういえば、少し前に安部公房『けものたちは故郷をめざす』という小説があったが、そんな姿勢も一考ではないだろうか。
〔文・写真(玉龍) ☆ 江戸ソバリエ認定委員 ほしひかる〕