語法、語感の世代間較差
執筆者:編集部2
今回は、旧奉天市鐵西区の話から脱線し、語法・語感の世代間格差(?)についてきわめて主観的な話を思いつくままにしてみたいと思う。
10月10日(日)付の読売新聞の朝刊第一面のチリのサンホゼ鉱山落盤事件の無事決着を報じた記事の中に、「たて抗貫通は、事故現場周辺でもサイレンで知らされ、近くに集まっていた家族たちは、感涙にむせびながら抱き合った」という文章があった。同日中に複数の友人から「あれ、ちょっと変じゃないのか?今の人たちはおかしいとは感じないのかなぁ?」「編輯デスクのチェックもパスしたのかなぁ? 信じられへんなぁ!」との連絡があり、違和感を覚えたのは私だけではなかったことが分かった。昭和20年の敗戦までは、「感涙」という単語は、例えば、「皇恩の無窮に感泣せざるものなかりき」、「皇恩の忝なさに感泣」、「皇室の深い御めぐみに感泣せぬものはありませんでした」、「聖恩に感泣す」、「至尊の竜顔を咫尺(しせき)の間に拝する遺族はただただ感泣」、等など、何れも「陛下」「皇室」に関連してのみ用いるのが仕来たりだったからである。
言葉の意味というか用法は、戦後数年の間に随分変わった。我々の世代は、国語教育、特に書き言葉、では時代の波に翻弄された。義務教育では旧仮名遣い、旧漢字で教育を受け、中学に入ってからは、口語文法でも四段活用を叩き込まれた。それが、旧制中学が新制高校に移行する頃になって、例えば、「學校」ではなく「学校」と書かなければならなくなったり、「テフテフ(蝶々)」が「ちょうちょう」になったのはともかくとしても、文法で丸暗記した動詞の「四段活用」がいつの間にか新仮名遣いで「五段活用」になってしまって「四段活用」の答案ではゼロ点しか貰えなかった。
当用漢字にも泣かされた。例えば、「鐵」「縣」「學」「體」「聲」など普段繁用する漢字が「鉄」「県」「学」「体」「声」になってしまった。「当用漢字」とは、日本の近代化、民主化の大きな妨げになってきた漢字を全面禁止するまでの当分の間に限って例外的に用いることを許される漢字である、との説明を聞いた記憶もあるが、本当にそうだったのだろうか? 暴論のようにも聞こえるが、お隣の韓国では漢字は原則として使わなくなってしまっていることを考えると漢字全廃の可能性もある程度あったのではなかろうか。
当用漢字以前は、例えば「熔」と「溶」とは厳密に使い分けられていた。「熔融」と「溶解」。熱をかけてとけるのが「熔ける」もしくは「鎔ける」、砂糖が水にとけるのは「溶ける」、氷がとけるのは「融ける」。「溶鉱炉」は「熔鑛爐」だった。私は「溶」と「熔」と「融」の用法などに、朧げながらも漢字の面白さを感じ始めていたのだが、当用漢字の普及とともに興味を急速に失っていった。
単語の発音や使い方も随分変化した。以前は、音楽の和音はクヮオンと発音していた。「台風の目」は、「颱風の眼(ガン)」で「メ」と読むと注意された。「較差」も コウサ とは読まなくなり専ら カクサ になってしまった。小学生は「児童」、これは今も変わっていないかもしれないが、中学生・実業学校生は「生徒」、大学・高専は「学生」だった。小学校や中学校は「授業」だったが、大学は授業ではなく「講義」と峻別されていた。
死語になってしまった単語も多い。例えば、三八(サンパチ)。昭和43年に欧州に出張したとき、ハンブルグの日本人クラブの昼のメニューに三八定食というのがあって、定価が3マルク80ペニヒだった。 既に、戦後23年を経てはいたが当時40代半ばの働き盛りだったビジネスマンは終戦時には20歳前後の壮丁(これも死語であろう)だったわけで、三八式歩兵銃は忘れようとも忘れられない言葉だったであろう。「ウナ」もまた、死語になった。急な用事を「ウナで頼む」といっても、現在ではキョトンと怪訝な顔をされるのがおちである。(至急電報のことをウナ電といった)。 赤切符(3等車、すなわち今の普通車、の切符)、青切符(2等車、今のグリーン車、の切符)、白切符(今はない一等車の切符)も死語、テレビなどでは、「戦艦」や「戦闘機」という言葉を「軍艦」や「軍用機」と同義語に使ったりしていることがあるが、誰も気にはしていないようだ。「擱座」(カクザ)も専ら「座礁」といわれるようになっている。
中国の反日暴動などに触発されて、不用意に甦ってもらっては困るのは「暴支膺懲」という死語であるが、それにしても、少なくとも報じられている限りでは、今回の暴動が東北三省(旧満洲地区)では全く発生していないのは何故だろうか、ちょっと気になるところではある。
(平成22年10月25日記)