第663話 蕎麦屋

      2020/10/09  

~ 『世界蕎麦文学全集』物語5 ~

  宮尾登美子の『菊亭八百善の人びと』、小泉武夫の『幻の料亭「百川」ものがたり』など江戸の老舗料亭の物語は当時の様子がうかがえて興味深い。
    近代の名店ということでは魯山人「星岡茶寮」(赤坂日枝神社境内)が有名であるが、井伏鱒二『珍品堂主人』は魯山人の関係者を参考にした小説であるらしいことを知った。
    ある日のこと本屋でこの本が目に入った。中高生のころ映画館に森繁久彌主演の『珍品堂主人』のポスターがあったことを思い出し、どんな内容なのだろうかと思って、読んでみたがあまり面白くなかった。
    話は、骨董好きの教師が骨董屋になって、そのうち料理屋まで手を広げたが上手くいかなくて、また骨董屋に戻ったという他愛もない話だった。
    ただ主人公が料理屋になったとき、凝った蕎麦も出そうとしたというところだけが興味をもったくらいである。

 それから何年かして、TVで「開運!なんでも鑑定団」という番組を観てから、もう一度あれを読んでみようかと引っ張り出した。TVの「鑑定団」では、各々の〝専門家〟が高値をつけたり、バッサリ切ったりしているが、観る者は感心して羨ましがったり、バカだなと笑ったりしている。そこが人気なんだろうが、偽物を掴まされた人は、騙されても騙されても今度こそは本物を手に入れられるようシッカリ勉強するんだという健気な〝骨董好きの人〟ばかりである。 
   小説の骨董屋もそんな雰囲気だった。だから小説は、入り込んだら抜けられい骨董趣味の魔力みたいなことを書いているのかなと思い直した
   そのうちに井伏の『珍品堂主人』は、魯山人の「星岡茶寮」を支えた骨董鑑定師の秦秀雄がモデルだということを知った。ただ井伏はノンフィクション的な小説は書かないからこれを読んでも魯山人の影も形も見えない。やはり骨董界の魔力を書いているのである。

 でも、気になるところがあったので、前に読んだことのある平野雅章『魯山人御馳走帖』を再び開いてみた。そこには星岡茶寮でも蕎麦を供する努力をしたが、うまくいかなかったとある。
   井伏の小説の蕎麦の件と、星岡茶寮でも蕎麦の件は、私には共通した違和感みたいなものがあった。
   ご承知の通り、魯山人は利休と並んで、和食に革命を起こした人物である。彼らはどうしたら食を美味しく頂けるかを追求し、利休は「「熱い物は熱いうちに、冷たい物は冷たいうちに」、魯山人は「原料第一、出汁の大事さ」を唱えた。
   しかし料理では成功した魯山人であったが、蕎麦では上手くいかなかったようである。(ただし、当人は自慢していたようであるが・・・。)それが『珍品堂主人』にも『魯山人御馳走帖』にも表れているような気がした。つまり彼らの蕎麦は伝統的蕎麦屋の蕎麦と違っているように感じたのである。

 では、老舗蕎麦屋がどんな風だったかについては、沢村貞子『萬盛庵物語』、村瀬忠太郎(滝野川「やぶ忠」)の『蕎麦通』堀田平七郎(「並木藪蕎麦」)の『そばや今昔』などを読めば分かってくる。
   「藪」の堀田は、趣味蕎麦の古い伝統を守っている格式高い蕎麦屋は、よく吟味した最高の蕎麦粉を使い、調理の仕方も昔ながらの家伝を守り、決して手抜きなどしないし、厳しい店主が隅々まで目を光らせていたから、供する蕎麦もおのずから格調高いものになった、と述べている。
   老舗の「萬盛庵」は、敷地300坪はたっぷりあった。店に働く人たちのキリリとした身仕舞いのよさにも老舗の伝統が感じられ、食べもの屋らしく、白粉っ気のない女中さんの小ぶりの銀杏返し、前掛けに甲斐甲斐しい襷、わけ隔てのない行儀のいい客扱い・・・、だったらしい。
   村瀬忠太郎は二代目の大名蕎麦屋だった。彼は明治になってますます大衆化してくる蕎麦を嘆いて「昔の蕎麦はどこへいったか」と悲哀さを告白している。

 そこへ登場するのが、文士の高岸拓川という人物である。当初彼は浅草の「萬盛庵」で文士たちを集めて蕎麦会をやっていたが萬盛庵がやむなく閉店してしまったので、滝野川の「やぶ忠」で開くようになった。その蕎麦会については獅子文六がエッセイ「名月とソバの会」に書き残している。
   われわれにとって重要なことは、高岸は昭和4年ごろに後に〝蕎聖〟とよばれるようになった「一茶庵」の片倉康雄を村瀬忠太郎に引き合わせたことである。
   片倉は忠太郎との出会いによって手打ち蕎麦に目覚めた。そして暫くしてから片倉は魯山人と出会い食器の大事さを教わった。また片倉は、二人から技術ばかりではなく食の思想も吸収し、村瀬忠太郎・北大路魯山人の成しえなかった、一茶庵流という高級蕎麦を完成させたのである。
  かくて、江戸の高級蕎麦屋が復活し、幕末から明治・大正の大衆蕎麦屋と共に日本の蕎麦文化を支えることになった。
  私としては、魯山人の失敗を知ることによって、今さらながら老舗蕎麦屋の底力か分かったような気がするのである。

追記:
①なぜ「萬盛庵」が閉店したかは、沢村貞子の『萬盛庵物語』に書いてある。ということは高岸が「萬盛庵」から「やぶ忠」に場所を変更したころのことを沢村は書いていることになる。
②驚いたことに、村瀬忠太郎さんの孫にあたる方から「祖父について教えてほしい」なんていうメールが飛び込んできたことがある。
   さっそくお会いして、当時の「やぶ忠」が何処にあったかの、私の推測と合っていたことも確認できたが、ほんとうに奇跡のような出会いだったと今でもお孫さんに感謝している。

【世界蕎麦文学全集】
14.井伏鱒二『珍品堂主人』
15.平野雅章『魯山人御馳走帖』
16.沢村貞子『萬盛庵物語』
17.村瀬忠太郎『蕎麦通』
18.堀田平七郎『そばや今昔』
19.ほしひかる「日月庵やぶ忠物語」
20.獅子文六「名月とソバの会」 

 文 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる
写真:星岡茶寮(伊勢丹店)の《里芋とささみの混ぜご飯》