第676話 トルストイのコンプラ醤油瓶

      2020/12/14  

『世界蕎麦文学全集』物語18

 ロシアの作家プーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ・・・の名前はご存知であろう。
  彼らが活躍した1800年代はなぜかロシア文学の黄金期となり、その影響は日本の文学にも及んだ。
 その一人に徳富蘆花がいた。蘆花はトルストイが菜食主義者だと知って、自分も菜食主義者になったくらいである。
 ある日のこと、蘆花はトルストイに会いに行くことを思い立ち、パレスチナを巡ってからロシアに向かった。
 そして1906年(明治39年)の6月(旧暦)、ヤスナヤ・ポリヤナ村のトルストイ邸を訪れ、翁と会っている。
 その記録『巡礼紀行』や後の『みみずのたわごと』によると、トルストの書斎は十畳ほど、マホガニーの黒塗の卓、椅子2脚、黒革のソファ1台。壁の書棚にはフランス語の『社会主義の心理』など置いてあった。四方の壁に画像が貼ってあり、西側にはラファエルの「システィン・マドンナ」の絵もあった。
  ランプの光でトルストイ翁を観れば頭心やや禿げて灰色の髪まばらに、俯いた額の皺深く、大きな眉。このとき、トルストイ77歳、蘆花37歳であった。

 なぜトルストイの書斎の描写をとり上げたかというと、実はトルストイの書斎には日本から輸出した醤油の瓶が一輪差として利用されているという話があるからだ。
   噂の出所は井伏鱒二の作品『コンプラ醤油瓶』という作品である。
   この「コンプラ醤油」というのは江戸後期にコンプラ社がヨーロッパ向けに輸出していた醤油のことであり、その瓶は波佐見焼製だった。
   井伏はこう書いている。嘉永2年長崎に来航したロシア皇帝の使節プチャーチン提督の秘書として随行したゴンチャロフはコンプラ醤油を土産にもらい、それをトルストイに上げたとしても不思議ではない、と。
   しかし、残念ながら蘆花の記録には「コンプラ醤油瓶」は見当たらない。
   それなのに、世間ではトルストイのコンプラ醤油瓶は事実のように流布してしまっている。
   かくいう私も、これを読んでから井伏鱒二のロマンが感染してしまい、〝コンプラ醤油瓶〟に一種の憧れをもった。
  そんなある日、神保町の古本屋に飾ってあった。お値段を訊いてみると、7万円だという。私は骨董品が嫌いではないが、骨董キチではないし、また焼物王国佐賀出身の私からいえば、波佐見焼は雑器用が得意である。だから見送った。それの後もたまに骨董屋などで見かけると、15~20万とある。驚きのお値段であって、もはや私なんかに手は出ない。
   そんなころある会で、料理研究家の冬木れい先生が長崎のチョーコー醤油の東京支社の方をご紹介してくれた。実は、このチョーコー醤油という会社は最近「コンプラ醤油」を復刻していた。これも何かのご縁だ。さっそくその方にお願いして復刻版を購入した。
   そのお味は?九州の醤油の味がベースであるが全国に通用しそうな味だった。
   とにかくこれで、私の中の「コンプラ醤油瓶」は十数年かけて完結した。そして思い続けると願いは叶うものであるということも知った

  トルストイに会ってからますます心酔した徳富蘆花は、帰国後の明治40年(1907年)から東京で趣味の百姓生活に入った。
  また同じくトルストイを尊敬していた武者小路実篤も大正7年(1918年)に宮崎で「新しき村」運動を始めた。

『世界蕎麦文学全集』
43.徳富蘆花巡礼紀行
44.井伏鱒二『コンプラ醤油瓶』

文・写真(蘆花公園):江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる
地図(ヤスナヤ・ポリヤナ村):ネットより