第699話 親鸞蕎麦喰い伝説

     

『世界蕎麦文学全集』物語 41

 京都府に「比叡山 蕎麦喰い像」という民話が伝わっている。
  話はこうだ。
   鎌倉時代の初めごろ、浄土真宗を開いた親鸞という偉いお坊さんがいたのですが、これはその親鸞が、範宴という名前で修行をしていたころのお話です。
  そのころの範宴は他の若いお坊さんたちと一緒に、比叡山にこもって修行をつんでいました。でも、いくら修行をしても、仏心を会得することができません。「まだ、修行が足りぬのか」と悩んだ範宴は、都にある六角堂という所へ百日参籠をすることを思いつきました。
 その晩から範宴は誰にも知られないようにと、みんなが寝た後でこっそり山を下り、みんながまだ目を覚まさない明け方のうちに帰ってくるという、辛い修行を始めたのです。
 初めのうちは何事もなく過ぎていきましたが、やがて仲間のお坊さんたちの間で、範宴の朝帰りが噂されるようになりました。
 そこで師である大僧正慈円は、突然にみんなをお堂に集合させると、一人一人順番に名前を呼び始めたのです。
 そしてついに、範宴の番がまわってきました。
  「範宴!」
 師の重い声がお堂に響くと、〝不思議〟な事にいないはずの範宴が答えました。      
  「はい」
 その声は、確かに範宴の声です。
 師も仲間のお坊さんたちも、その声を聞いて胸をなでおろしました。(よかった。ただの噂であったか)
 安心したみんなは、その後で出された夜食のお蕎麦を食べると、それぞれの部屋に帰っていきました。
 ところが翌朝、早起きをした一人のお坊さんが、朝帰りの範宴とばったり出会ってしまったのです。
 「本物の範宴は、今帰ってきた。すると昨日返事をして蕎麦を食べたのは?」
 仲間のお坊さんたちは、昨日の返事をして蕎麦を食べた者を探しました。
 そして見つけたのが、範宴が彫った彼そっくりの像だったのです。
 〝不思議〟な事にその像の口元には、お蕎麦の青葱がついていました。
 この範宴の代わりに返事をしてお蕎麦を食べた身代わり像は、その後、「蕎麦喰い像」と呼ばれるようになりました。~

 つまりは、親鸞が蕎麦喰い木像を置いて、毎晩山を駆け下りて六角堂の辛い修行を行っていたというわけであるが、前話の西仏房のところで、慈円親鸞の話が出たので、今回は親鸞が比叡山の慈円の下で修行をしていたころの話を持ち出した。
  若き親鸞が比叡山で修行していたことは、『親鸞伝絵』の上巻第一段、覚如の『報恩講式』、『高田正統伝』、『恵心尼消息』やなどから伺えるという。
 師の慈円大僧正は大変な人である。前話で触れた『平家物語』を生み出した人ともいわれているが、もっと確かなことは“道理”という概念を最初に明確にした思想家でもある。道理・・・、「そうか、どうりで・・・」のあの道理である。
  その慈円が関わった親鸞の伝説というところが凄いところであるが、これは後年に語られるようになった話なのであろう。
  というのは、親鸞が勉学したとされている無動寺谷の大乗院は、天台宗であるのに本尊は親鸞像である。この像が「蕎麦食いの親鸞像」と呼ばれるもので、ここで浄土真宗の伝統行事「報恩講」も執り行われているのである。
  私はこの伝統行事において、親鸞の「六角告命」の前段説話として、聖者の〝不思議〟さが語られるようになって伝えられのではないだろうか。なぜなら〝不思議〟それが聖者の法力として・・・。
  比叡山に登れば、京都・六角通りの頂法寺、いわゆる「六角堂」が見下ろせる所がある。今朝というか真夜中の2時に起きて、回峰行ミニミニ体験に参加してフラフラであったが、ここだけは寄ってみたいと思ってやって来たわけである。
  
『世界蕎麦文学全集』
78.「比叡山 蕎麦喰い像」(『京都府の民話』)
79.大乗院「蕎麦食いの親鸞像」
80.法住寺「蕎麦食いの親鸞像」
81.ほしひかる「親鸞、蕎麦喰い木像」(平成18年4月号『日本蕎麦新聞』)
『親鸞伝絵』
*慈円『愚管抄』

文:江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる
写真:蕎麦食い親鸞像(大乗院)