第733話 少数民族の空き家

      2021/08/27  

~秘境中国 謎の民~

 たまたまテレビを点けたら、「雲南・・・云々」という前説が流れて『秘境中国 謎の民』という番組が始まった。雲南は栽培蕎麦発祥の地であり、2019年秋に第三次北京プロジェクトの仲間と行ったことがあったから、そのままテレビの前に釘付けになった。

☆謎の民ルーモ人
  番組は、世界自然遺産の高黎貢山の標高2500mにある金満村に住むペー(白)族ルーモ(勒墨)人1200人の強制移住の話であった。
 .ルーモ人の祖先は今から800年前までは、ここから2000㎞離れた長江の入江にある釣魚山(重慶市合川区)辺りに住んでいたという。そこは南宋の影響下にある地域であったが、その南宋をモンゴルの4代皇帝モンケ・ハンが弟フビライに征伐を命じた。13世紀のことである。フビライは正面攻撃作戦をとらずに、先ずは南宋の背後にある大理国を征服(1252年)した。しかしモンケ・ハンは攻撃を急ぎ、自らモンゴル本隊を率いて六盤山(寧夏回族自治区南部)を基地として南宋の合州城(重慶市合川区)を包囲した。一帯の民は南宋に組するか、モンゴル軍に従うか分かれたが、ルーモ人の祖先は南宋側に付いた。南宋の兵は1万人、対するモンゴル軍は10万。勝敗は見えていた。ところが4代皇帝モンケ・ハンは合州城外の釣魚山にてルーモ人が放った弩弓の矢で戦死(1259年)した(『元史類編』)。
  4代亡き後、兄弟が争ってフビライが5代目皇帝となった。その後もルーモ人たちはモンゴル軍に頑強に抵抗したが、1279年、南宋はついに滅亡。ルーモ人も力尽き、この地から南方へ落ちて行き、怒江を渡って高黎貢山の金満村に辿り着いた。

 ここで、弩弓に長けていた彼らは、高黎貢山に棲息する兎や鳥を狩り、山菜・茸・薬草や野生の蜂蜜を採取して生きてきた。また段々畑でトウモロコシ栽培も行うようになった。今でも村の祝い事があるときは、地鳥・山菜・茸を唐辛子で味付けた煮込み鍋にトウモロコシ酒を竹の器で飲んで楽しむ。彼らの家屋は一族の伝統的な木造建築、曾祖父の代からの家、粗末だがかけがいのない家だという。貧しくとも、それなに平和に暮らしていた。

  ところが、ここにきて彼らは再び金満村を離れなければならなくなった。
 中国政府は、2016年より「貧困からの脱出」をテーマに貧困農民の集団移住政策がすすめていた。これによって、5年で1000万の少数民族の人たちが山から下りて麓の町へ移住させられた。
  2020年9月、民たちは村のシャーマンを先頭に先祖の墓に祈り、別れを告げて泣いていた。そしてルーモ人は、800年住んだ金満村から5時間かかる怒江の谷底の町雲南省怒江リス族自治州濾水市洛本卓ペー族郷へ移住した。

☆少数民族
  以上が番組の内容であった。それに若干の解説を加えるとすれば、大理国というのはペー族が中心となって10世紀に建てた国であった。そのペー族の由来は古く、新石器時代から辺りに住んでいた。それが唐代に南詔国を作り、その後大理国も建てた。しかしフビライに征服され、ペー族は四散し、配下にいたタイ族たちは南下し、現在のラオスやタイに向かった。そしてルーモ人も南の雲南省へ逃れた。福岡⇒札幌で約1500㎞。2000㎞の逃亡の悲惨さはいかほどだったろう。
    雲南省の面積はほぼ日本と同じくらい。辿り着いたそこは怒江(サルウイン川上流)、瀾滄江(メコン川上流)、金沙江(長江上流)などの水系があり、最高峰の標高は6740m、低い所は標高76mという落差の大きい大峡谷は人を寄せ付けい秘境だった。それゆえに豊富な自然資源に恵まれ、「動植物王国」「非鉄金属王国」などと別称されているが、人間が生きていくには厳しい世界だった。

  番組で紹介されたルーモ人たちの生活に蕎麦は見られなかった。大西近江先生の研究によると、この地で蕎麦栽培が始まったのは5000年前だから、13~14世紀ごろ移住してきたペー族ルーモ人には蕎麦食の習俗がなかったことも肯ける。
 しかし、第三次北京ブロジェクトで貴州・雲南に行った2019年の秋前後に私が調べたところでは、同じ怒江一帯に住んでいる、リス(傈僳)族やヌー(怒)族たちは蕎麦食の習俗をもっている。しかも番組で「同心酒」(一つの竹器に入った酒を二人同時に飲む。自然と頬を寄せ合い、ときには唇も接する)と報じていた酒の飲み方も怒江の民族は共通しているようだ。そのトウモロコシ酒は、アルコール度数は低く、やや酸味があるらしい。

   ところで、13世紀の日本はといえば、南宋臨安に留学していた円爾が1241年に帰国してわが国に石臼文化を持ち込んでいた。また1274年と1281年の二度、モンゴルは日本を襲った。一度目は南宋攻略の一環だった。当時の日本列島は南北に連なっていて、南宋に近いと思われていた。そのため南宋の後方日本を征服した後に南宋攻略をとるつもりだった。だが失敗した。二度目はサハリン、日本、台湾、ジャワを攻略するつもりだったがこれも失敗した。というよりか、南宋を征服したことが何より大きかったし、敢えて慣れない海洋戦に臨む必要はないとフビライは考えたのかもしれなかった。
 
 中国には、人口の多い順でいえば、漢民族、チワン(壮)族、満州族、回族、ミャオ(苗)族、ウイグル族、トゥチャ(土家)族、イ(彝)族、モンゴル族、チベット族、プイ(布依)族、トン(侗)族、ヤオ(瑶)族など56民族が住んでいるが、言い方を変えると「漢民族1+少数民族55」ということになり、だいたい少数民族は辺境に散在する。 
   2019年秋、中国を車で移動していたときも、あちこちで廃墟となった民家群が見られた。また少し走っていると突然高層ビル群が出現する。これがいわゆる集団移住政策の象徴である。古民家を捨てて、ここに移りなさいというわけである。貴州省威寧県へ苦蕎麦畑を見に行ったときもそうだった。途中に空き家となった回族の古民家があった。少数民族の存在は生きた歴史だというが、その空き家にもそれを感じさせるものがあった。なので、帰国してから回族の空き家を描いたりしてみたが、描いた理由を述べるために、縷々この駄文を書き殴ったところがあるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 


写真1:中国全省地図
写真2:鴨池大橋を渡って貴州へ
写真3:貴州威寧県の苦蕎麦畑
写真4:回族古民家の絵
写真5:回族古民家

参考:
*NHK『秘境中国 謎の民』
*岡田英弘『中国文明の歴史』(講談社現代新書)
*別冊『新・みんなの蕎麦文化入門』シリーズ
・733話   少数民族の空き家
・730話 世界蕎麦 地球蕎麦

〔江戸ソバリエ第三次北京プロジェクト ほし☆ひかる〕