第713話 日新舎友蕎子の深大寺蕎麦
2021/10/17
江戸中期ごろ日新舎友蕎子という蕎麦人がいましたが、この人が最初に深大寺蕎麦のことをとり上げた人と言ってもいいでしょう。ただし日新舎友蕎は筆名であって、当人の本名氏素性は明かではありません。この謎の人物は何者か、それをに少し考えてみたいと思います。
☆『蕎麦全書』
①日新舎友蕎子著の『蕎麦全書』は、蕎麦についてあらゆることが記載されています。
新蕎麦、深大寺蕎麦、蕎麦打ち、蕎麦打ち道具、蕎麦汁、薬味、蕎麦湯、蕎麦切屋、新吉原の蕎麦屋、けんどんそば、ぶっかけそば、蕎麦粉屋、蕎麦産地、その他、
②わけても最初に新蕎麦のことを掲げているところに江戸っ子蕎麦好きの思いが込められているのでしょう。
③また、和泉町新道の蕎麦屋「鳴子そば」は深大寺蕎麦が評判がいいので、その近辺の鳴子と付けたとか、神田鍛冶町横町の蕎麦屋「武蔵の蕎麦」は深大寺蕎麦の意味から名付けたとか、何かにつけ深大寺についてふれています。
新蕎麦への思いから産地の近い深大寺蕎麦を大切にしたいところが蕎麦好き江戸ッ子にあったのでしょうか。
④また蕎麦湯の一文は蕎麦湯の初見として有名な史料となっており、江戸蕎麦の歴史から見ても『全書』の価値を高めているところです。
⑤さらには薬味の記載が多く、和食文化の視点からも『全書』の貴重さを示しているものと思います。
総じて言えますことは、これは「江戸蕎麦全書」、あるいは江戸ソバリエ認定講座の教本であるかのようです。
☆謎の友蕎子
それにしても『蕎麦全書』とはいい題名です。また筆名の「友蕎子」も、いかにも蕎麦好きらしさが表われた名前です。後世、「蕎聖」と呼ばれた片倉康雄も倣って「友蕎子」と名乗ったぐらいです。
ただ残念なことに、この名前は他の史料にまったく出てきませんし、自著の『蕎麦全書』にも個人的なことはあまり書いていませんので、どういう人物なのかまったく分かっていません。
それでも、多少の手掛がないものかとそれらしい記事を拾ってみたいと思います。
❶そこで先ず問題にしたいのは、江戸の何処に住んでいたのか?です。
*友蕎子の幼少期。
その前に、幼年の時、浅草華川戸に吉田屋があったことを述べているところからしますと幼少時は華川戸で育ったのかもしれません。
*友蕎子の住まい。
次に現在の住まいですが、『全書』に「近辺」の蕎麦屋を紹介していますことから推察してみます。
堀江町一丁目に吉川屋、槌屋(玉屋)、
小船町二丁目新道に大和屋、
和泉町の楠屋、
堺町の福山、
を「近辺」だと言っています。現在でいえば堀江町一丁目・小船町二丁目⇒日本橋小舟町、和泉町・堺町⇒日本橋人形町ですが、人は自分の住まいを先に書くものでしょう。ですから、友蕎子は堀江町一丁目、小船町二丁目(現:日本橋小舟町)に住んでいたと思われます。
*友蕎子宅の界隈。
いわゆる「屋台蕎麦」についてこんな紹介をしています。
夜中に売り歩く蕎麦を「乞食蕎麦」といいますが、うちの近辺では「米番蕎麦」といいます。それは近くに米屋があって積んだ米俵を寝ずの番をする者が夜中に蕎麦を食べるからです。
この一文にも謎解きの鍵があります。それが「米屋」です。享保期から、日本橋の、表河岸町、長屋町、七軒町、上伊勢町、下伊勢町、小網町、小船町、堀江町は「米河岸八町」と呼ばれいて、米問屋が軒を並べ、元禄年間(1688~1704))でもその数は 140軒以上はあったといいます。当然、友蕎子が『全書』を上梓した1751年ならもっと多かったのでしょう。これからも、友蕎子は小船町、堀江町の米屋のある辺りに住んでいたとみていいでしょう。
❷友蕎子は何者か?
友蕎子は蕎麦打ち、蕎麦汁、道具について記載していますので一見して蕎麦屋かと思われますが、そうではないでしょう。その理由は、
*各章は「予按ずるに」で始まっている。
「予(余とも書く)」とは、私ということです。しかし庶民的な蕎麦職人は使いません。たとえば後代ですが、夏目漱石の小説『趣味の遺伝子』などでは主人公(知識人)は余と言っていますし、森鴎外の遺書は「余ハ少年ノ時ヨリ・・・」と書き残しています。友蕎子もそれなりの立場の人だったと思います。
*「乞食蕎麦」について。
乞食蕎麦というのはいわゆる屋台蕎麦のことです。友蕎子本人は寝ずの番をする者が食べる乞食蕎麦を食べずに、話題にしているだけです。あくまで蕎麦通としては店舗蕎麦を対象にしていますので、そういう立場の人物だったと思います。
そういえば、なぜか「蕎麦は屋台から始まった」とか、「屋台蕎麦が江戸蕎麦の代表」みたいに言われていますが、それはちがいます。正統の店舗蕎麦屋は、一町に一店はあったといいます。名代の店は店名では呼ばずに、たとえば巴町にある砂場ですと「巴町の」と町名で言ったりするのもそんなところからです。一方の屋台蕎麦は店舗蕎麦屋の閉店後から商いを始めますが、店舗型とちがって水など今と違って不衛生ですから、一般的な店とはいえませんし、その数も不明です。明治初めごろは屋台は廃れており江戸ではわずか十数軒だったといいます。それがなぜ蕎麦屋の代表のように思われてしまったかといいますと、明治時代、上方落語「時うどん」を3代目柳家小さんが江戸噺「時そば」として移してから広く知られるようになった、その影響からだと思われます。しかしそれはあくまでお笑いであって、歴史ではありません。そのことを踏まえて読めば、あらためて『全書』が正統な「江戸蕎麦全書」であることが、分かると思います。
*友人の谷村氏、平岡氏、松崎氏、土田氏について。
友人は庶民のように名前でなく、姓で記してあります。ですからここからも蕎麦職人ではなく、それなりの立場の蕎麦好きの人たちのようです。
*それに友蕎子は蕎麦屋のお客についてまったく触れていません。ですから、蕎麦屋ではないでしょう。
*個人的な話題を控えている。
この友人も姓氏だけで詳細は述べていません。また所用で信州諏訪あたりを通ったとにきも、「所用」とだけ述べていて何の用事なのか、何処へ行ったのかも明かにしていません。
また、江戸で広く知られている、小舟町に仮屋を設ける小舟町八雲神社の天王祭についても一切ふれていません。
このように友蕎子は終始、個人的な話題を控えているところがあります。ですから、随筆家でもありません。
*深大寺蕎麦粉「舛屋」について
『蕎麦全書』(1751年刊)にはありませんが、『七十五日』(1787年刊)には、堀江町に「源代寺そは粉 舛屋」があったことが記載してあります。「源代寺」というのは「深大寺」の誤りです。『七十五日』の刊行は友蕎子の『蕎麦全書』の刊行よりやや後ではありますが、だからといって存在が後とは限りません。むしろ友蕎子と同時代と考えるべきです。
そうであれば、友蕎子はその舛屋の影響を受けて深大寺蕎麦に親しんでいた。いや、むしろ友蕎子その人が舛屋の主人ではなかったかと考える方が辻褄が合うように思えます。
そう考えれば、(1)深大寺蕎麦を大切にしていること、(2)蕎麦屋をよく知っていること、(3)蕎麦湯に関心を寄せたことなど、あるいは(4)自分を「予」と述べていること、(5)自制的な文章であること、(6)『本朝食鑑』などの多少の文献は目を通していることなども納得できるわけです。
☆日新舎友蕎子の氏素性
ところで、小舟町の対面の伊勢町のことですが、当地は北條氏政の弟の氏村が、小田原城が落ちてから、江戸へ出て来て伊勢氏を名乗って土着し、その子の伊勢善次郎が名主となったので、町名を伊勢町としたといわれています。
また米河岸は、常陸国の小田城主の末孫が、この地にやって来て米の売買を始めたことからだといいます。
このように江戸という町と文化は、元武士が上級町人となって創っていったのです。彼らは俳諧をたしなみ、茶道や食に通じ、また教養もあり、自制心があり、統率力もありました。
そんな一人が日新舎友蕎子だと思います。彼は「日々新らしくする」という意味の「日新」を名乗るほど前向きな姿勢をもって、『蕎麦全書』を後世に遺したのでしょう。
絵『江戸名所図会 - 伊勢町通り』(評論社)の説明:
鉤の手のように流れているのが西堀留川、左下が中の橋その上が伊勢町と米河岸、川の右上に道浄橋と塩河岸、友蕎子が住んでいたと思われる堀江町は絵の手前になる。
付記:〇月〇日:日本橋界隈は在職の頃の勤務地でしたから、土地感はあるものの、あらためて江戸の日本橋を想うために日本橋にお住まいのYさんをお誘いし、小舟町の蕎麦屋で『江戸名所図会』の「伊勢町通り」の絵を眺めながらお蕎麦を頂きました。Yさん、ありがとうございました。
参考
日新舎友蕎子『蕎麦全書』
長谷川雪旦『江戸名所図会』
岸井良衞『江戸・町づくし稿』
『ものがたり深大寺蕎麦』シリーズ
・713話 日新舎友蕎子の深大寺蕎麦
・732話 大田南畝の深大寺
・731話 深沙大王の里
・727話 ねじれ花
・724話 鳩笛
・721話 謎の武蔵国司の乱?
・720話 深大寺白鳳仏はどこから?
・718話 白鳳仏 千年の目覚め
・717話 青春の白鳳仏
・716話 二重の異邦人
・715話 日本の中の朝鮮文化
〔深大寺そば学院 學監・江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる