第736話 都市の構図
『ものがたり深大寺蕎麦』シリーズを続けていますが、「深大寺蕎麦にとって重要な『江戸名所図会』について、まだ書かないのですか?」というメールをいただきました。
実は『江戸名所図会 - 深大寺蕎麦』は、江戸ソバリエ協会のサイトで『「深大寺蕎麦」を演じる』という題ですでに掲載していますので、なかなもう一度書くというのはつらいのですね。ですからそちらをご覧いただければ幸いに思います。
http://www.edosobalier-kyokai.jp/pdf/20161129hoshi7.pdf
代わりまして、ここでは『江戸名所図会』の意味みたいなことを少しだけ述べてみたいと思います。
ご承知のとおり、『江戸名所図会』は神田の名主斎藤家の幸雄・幸孝・幸成の三代にわたった制作の賜物です。
もちろん、都や江戸の町を描いた絵は他にたくさんあります。『洛中洛外図屏風』『遊楽図屏風-相応寺』『名所江戸百景』など、また名所案内記として『江戸名所記』『江戸雀』『江戸鹿子』『江府名勝志』『江戸砂子』など、いずれも当時の都の街の賑わいや名所が紹介されています。都市は地方に比べて自由、活動的、文化的ところがありますから、絵にしやすいのですね。そして絵になればそれがまた文化となってさらに都の賑わいがもたらされるのです。
これが中村雄二郎の言う「都市は私たちのパフォーマンスを通して眠りから目覚める」(『術語集』)ということではないでしょうか。
【都=文化】ということを日本史上、初めて意識したのは足利義満です。
彼は武力では地方の豪族大名には及ばないので、能・華・茶・食などを深めて磨き上げ、それを身に付けていない者を「田舎者」と差別するという政治姿勢をとったのです。こうして都の文化というものが誕生し、それがまた江戸の文化づくりにもつながったわけです。
繰り返しますが、先の絵は街の賑わいや名所を描いてあります。現代風にいえば、一種の報道のような役割を果たしています。
ところが、『江戸名所図会』はちょっと違っていました。
江戸の街だけではなく、東は千葉の船橋、西は東京の日野・調布、南は神奈川の横浜(金沢)、北は埼玉のさいたま(大宮)、と武蔵国全域、現在の首都圏を範囲としています。だからといって、「そうか、ちょっと範囲が広いのか」だけでもありません。都市とは何かという思想のもとに編集されているように思います。そのひとつとして江戸城を中心に北斗七星の形で地区を編集したところにもあらわれています。
大昔から平城京も平安京も、そして江戸も、都市は四神相応の思想のもとにおかれていました。四神というのは中国伝来の思想ですが、都の左方に青龍、右方は白虎、前方は朱雀、後方に玄武が棲んでいるというわけです。これは西に河、東に大道、前に海、後に丘陵と言い換えてもよいでしょう。つまり、河や海や平野の農海産物の生産地と流通の便利な地に都を置くわけです。言い方を換えますと、都心は周囲のお蔭で成り立っている。そうした構図が四神ということなのではないでしょうか。
こうした思想のもとに、斎藤家三代は約30年を費やして制作したわけですから、ほぼ一生を通してということです。どこからそのような強い意志が生まれるのでしょうか。齊藤家は、代々江戸・神田雉子町の名主として六ケ町を支配し、神田青物市場を監督していましたが、実は斎藤家というのは美濃の国主斎藤龍基の子孫だといわれています。血統的に指導者として質の高さを持ち合わせていたのでしょうか。
全体的に、江戸の町づくりや江戸文化の牽引役は、こうした元武士の上級町人だったということを忘れてはならないと思います。
ところで、江戸の「四神」的なことを感じた人がいます。それが先に述べた大田南畝です。
南畝は大田家のルーツが武蔵野の国分寺市にあるという縦の糸を知ったと当時に、江戸の神田上水(江戸北部への水道)と玉川上水(江戸南部への水道)は武蔵野の水の恵みであることを、寒風吹きすさぶ多摩川の土手に立って、身体で知ったのです。それゆえに水を司る深沙大王に強い関心をいだき深大寺を訪れたのでしょう。
おそらく泉鏡花も、三島由紀夫も、松本清張も、柴田常恵も、亀井勝一郎も、金達寿も・・・、何かを求めて武蔵野へ向かったのかと思います。
参考
『江戸名所図会』
写真:斎藤家邸跡地
『ものがたり深大寺蕎麦』シリーズ
・736話 都市の成立
・713話 日新舎友蕎子と深大寺蕎麦
・732話 大田南畝の深大寺
・731話 深沙大王の里
・727話 ねじれ花
・724話 鳩笛
・721話 謎の武蔵国司の乱?
・720話 深大寺白鳳仏はどこから?
・718話 白鳳仏 千年の目覚め
・717話 青春の白鳳仏
・716話 二重の異邦人
・715話 日本の中の朝鮮文化
〔深大寺そば学院 學監・江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕