第738話 伊那入野谷 夢幻蕎麦
《へべす》の爽やかな酸味、涼やかなつゆ、腰のある伊那入野谷の蕎麦・・・。
小松庵銀座店の《へべす蕎麦》については前の737話でご紹介したので、今日は入野谷産の蕎麦の話をしたい。
いつのころからか、伊那入野谷の白い蕎麦畠には月夜に蕎麦の精が出るようになったらしい。というのも、伊那高遠藩に伝わる「蕎麦」という謡曲に、蕎麦の精が歌人の中納言為久の歌に恋をしたと謡われているのである。その為久の歌というのは、冷泉家十四代為久が霊元上皇から蕎麦切を頂戴したときに献じた「寄蕎麦切恋御歌」のなかの二首のことらしい。
呉竹の 節の間もさへ君かそば きり隔つとも 跡社はなれめ ♪
とわまほし そばはなれ得ぬ俤の 幾度袖をしほりしるとは ♪
中納言為久という人は、武家の奏請(天子に上奏して裁可を請うこと)を朝廷に取り次ぐという「武家伝奏」の役に就いていた。だから1740年と41年の二度、関東へ下向したりしている。
想像をたくましくすれば、そのいずれかの折に、旅の途中、木曾街道を外れて伊那に立ち寄ったとも考えられる。なにせ為久は和歌の師としてあちこちの武家から引張凧の身だったのである。
ところで、この謡曲は、江戸末期の信州高遠藩の儒官だった中村元恒・元起父子が著した郷土史『蕗原拾葉』の中に収められているから、彼ら父子、とくに元恒の作であろうことは間違いない。
元恒という人は京の猪飼敬所に儒学を学び、広く漢文学に通じていた。もちろん息子の元起も江戸の昌平坂学問所で儒学を学んでいる。
蕎麦の花が白く咲く月の夜に美しい女人が出るという話は、蕎麦発祥の中国にもある。たとえば山東省に「蕎麦むすめ」という漢民族民話などが伝えられている。
京で学んだ元恒は、蕎麦の花の精の話も知っていたであろうし、為久が伊那へ立ち寄ったことも承知していたであろう。
そこで元恒は蕎麦の精を和歌の歌人と結び付けてみた。そのことによって、中国伝来の話を和風化させたのである。
そのことは、儒学も、蕎麦も、漢字も、仏教も・・・、最初は中国伝来の借り物であったけれど、もはやそれらは日本のものとなったということをこの謡曲に込めたものと想像する。
現代でいえば、アメリカ由来のジーパンは、当初アメリカにかぶれた人だけが穿いていたけれど、広がると日本化したジーパンに変化してゆくみたいなものだろう。これを現在ではグローバリゼーションと言うけれど、古代から人は移動し、文化は流移していたのだ。
こうした歴史真理が、小さな山間の、置き去りされたような謡曲に詠われていたかと思うと、宝物でも発見したような気分になつてくる。
それからもう一つ、謡のなかに「蕎麦の名所を尋ねるに、深大寺・練馬・中野・西ヶ原・・・」という詞が出てくる。江戸近郊の深大寺・練馬・中野・西ヶ原の蕎麦は信州高遠藩まで伝わっていたということになる。
しかも西ヶ原は北区内にあるが、それは旧・小松庵本店のあった辺りだという。西ヶ原と入野谷の因縁は蕎麦の精の引き合わせかと、入野谷の蕎麦をすすりながら思ったりした。
追記:
謡曲「蕎麦」の詞は『蕗原拾葉』で明らかであっても、歌の節がわからない。いわば幻の曲である。
「それならいっそのこと創作を試みてみようか、と知人の琵琶奏者・川嶋信子さんに相談をした。幸い、川嶋さんは快くうけてくれて、江戸ソバリエ・シンポジウムで琵琶曲「蕎麦の花」ご披露してもらった。
〔江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕