第810話 江戸料理曼荼羅

     

 数年前、料理研究家の冬木れい先生に、こう言われた。
  「江戸料理に《胡椒めし》があるから、お蕎麦でも胡椒が使えるでしょう」。
  そこで、更科蕎麦の腕を磨き上げ、変わり蕎麦が冴えいて、いつも新しいことに挑戦している巣鴨の「栃の木や」さん(江戸ソバリエの店)をご紹介したことから、《胡椒切》が誕生したことは度々申し上げてきた。
  その「栃の木や」さんが、場所を変えて戸田で蕎麦屋「紡ぎ」として再開されたので、冬木先生と江戸料理研究家の福田先生と3名でうかがった。
  そして今度は、冬木先生が今までいろいろと関わってこられた日光江戸村が、コレド日本橋に江戸料理の店「奈美路や」を開いたので「行きましょう」といということになった。
   さっそく、「紡ぎ」の内藤さん、江戸野菜研究家の大竹先生(江戸ソバリエ講師)、の4名で伺った。
 お店の料理は江戸料理、当然江戸野菜が食材だった。その御献立は、

  蕎麦の実と蜆の汁物
     田楽三種(山椒味噌
     ごま味噌生姜味噌)
     玲瓏豆腐
     鱸の昆布締め煎り酒凝り
     鱸の昆布締め
     滝野川牛蒡の炊き合わせ
     谷中生姜と栗の天麩羅
     一升べら(鶉たたき味噌)
     鯨の刺身
     手作りの鰹の蒲鉾
     奈美路揚げ
     卵ふわふわ
  湯消飯
  最後に粋な浦里と、江戸の味覚を満喫した。

   みんな美味しかったけれど、とくに《鯨の赤身》は忘れられない味だった。
 赤身のあま味とうま味が鐘の音の余韻のように舌に残る。日本は、令和元年にIWを脱退し、同年7月から大型鯨類を対象とした捕鯨業を再開した。それが卓上の鯨だろう。また《鰹の蒲鉾》も個性的だった。料理長自らのお手製とのこだから、これぞ一期一会、二度と味わえないものだった。
   最後の《浦里》は、池波正太郎の『その男』に出てくるから、「これか!」とつい見入ってしまった。
   幕末の深川新地、「百歩樓」の娼妓歌山が薩摩藩士の杉虎之助に、朝食として作って上げた一品ということになっている。大根下ろしに梅肉を細かく刻んだものを混ぜ合わせ、これへ揉み海苔と削った鰹節をかけて、醤油を垂らし、炊き立ての飯と食べるのだという。もともとは吉原の遊里で朝帰りの馴染み客に出していた物だそうだ。
  「浦里」というのは吉原の遊女の名で、春日屋時次郎と三河島で情死したことで知られている。この話を私は、旧安田邸で行われた新内の会で岡本宮之助師匠・文之助の「暁烏」として聞いたことがある。しかし、あのときは「暁烏」が始まったとたんに雨が降り出し、まるで三味線の音に合わせるように庭の石塔や敷石や、栢や柏などの大樹の葉に雨が落ち、妙に雨音と三味線の音が合っていたことを、浦里・時次郎とは関係ないのに今でもよく憶えている。とにかく池波は、男に尽くして情死した浦里を遊女の象徴としながら、歌山の話を創作したのではないだろうか。
  そして「奈美路や」は、供する江戸料理にこうした物語を添えたいのだろう。それは社長はじめ幹部の皆様の会話から分かる。なにせ、社長の名刺は「代表取締役将軍」となっている。そこに江戸文化を伝えようという志が感じられる。

〔江戸ソバリエ ほし☆ひかる〕