第239話 神田神社、江戸蕎麦奉納
☆江戸総鎮守 神田明神
江戸時代、神田明神の「神田祭」と日枝神社の「山王祭」は、幕府公認の祭として神幸行列が江戸城内へも巡行し、将軍など上覧を受けていた。
この「上覧」というシステムが、江戸っ子のプライドを大きく支え、彼らは二つの祭を「天下祭」と呼んでいたという。
幕府も憎いことをやるものだ。町民の祭を尊重することによって、町民たちの毒消を図っていたともいえるのだ。
当時の江戸の祭は山車が中心で、その番付もだいたい決まっていた。町の氏子の山車、練物は行列を組み、神田祭のときは田安門から城内に入り、将軍の御覧を供して、竹橋門から町へ出て行った。山王祭の場合は半蔵門から城に入って、同じく竹橋門を出て行くのが順路であった。その観衆の賑やかさは、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』の、「神田明神祭礼」や「山王祭」からも覗える。
ところで、江戸八百八町は「蜜柑の袋」のようだとか、「山葡萄の実」のように並んでいるだと指摘されることがある。江戸の中心はあくまで江戸城であり、町には優劣をつけないで八百八町を同列に置く町作りだというのである。
一方では上覧を許しながら、他方では幕府以外の中心地をつくらないというのが、幕府管理の手法だったのだろう。
☆江戸蕎麦奉納
ともあれ、こうした由緒ある明神社のお祭りにおいて、「江戸蕎麦を奉納しないか」というお話をサンフランシスコにご一緒した「かんだやぶ」の掘田先生からいただいた。われわれ(江戸ソバリエ+鵜の会=サンフランシスコ組)は「身に余る光栄」と、翌年の平成20年から実施することにした。
江戸蕎麦を奉納する日は5月の神田祭の日ということになった。道具類、食材類は前日から運び込んだ。
その日は全員、白装束、白足袋、草履着用で勢揃いし、手水舎にて両手と口を洗い清め、その後に打ち場、道具類、蕎麦粉、水などのお祓い。蕎麦粉は常陸産、将門ゆかりの地である。
蕎麦打ちが終わると、打った御奉納蕎麦をその場で和紙に包み、麻紐で結んでから、二台の三方に各々七・五・三に盛る。本祭事ではすべて聖数とされる奇数で物事を決めた。本殿に入るときは全員が三列になり、殿中では四列になった。全員が整列し、一礼してから《打った蕎麦》と「かんだやぶそば」様からご進呈して頂いた《蕎麦汁》を大黒様(農業神)、恵比寿様(漁業神)、平将門命の三神に奉納した。神主さんの祝詞、お祓いが行われた。そして最前列の者が代表して玉串を捧げ、全員が二礼 二拍手 一礼し、その上で御神酒を頂戴した。本殿を退出したとたん、皆の顔の緊張が解けた。そして、今日の蕎麦打ち奉納が無事に終えたことを喜び、三三四拍子の三本で私たちの祭事を締めた。
〔江戸ソバリエ協会 ☆ ほしひかる〕