第852話 鴨の聖地~香取鳥見神社
2023/11/13
~ 武蔵、蕎麦産業群論 ~
鴨が好きだから、蕎麦屋さんに行くと《鴨なん》をよく頂く。
《鴨なん》という逸品は、日本橋馬喰町一丁目の「笹屋」という高級蕎麦屋が1810年ごろに開発したと伝えられている。日本橋は「江戸の台所」とよばれるぐらい食材の町だった。だから他の問屋と並んで鳥問屋も按針町にあった。言ってしまえば、日本橋で《鴨なん》が誕生する環境は十分だったのである。
江戸後期の鳥問屋のなかで、もっとも名が通っていたのは東国屋であった。店主は伊兵衛。その東国屋伊兵衛が、手賀沼畔の布施村にある香取鳥見神社の再建に際し百両の寄付をしたことがある、と聞いたので手賀沼へ行ってみようと思った。
そんなことを千葉にお住まいの齋藤利恵さん(ソバリエ)に話したら、何とわざわざ下見に行って来たということで、行き方まで教えてもらった。それによると私の場合は、JR大塚から山手線、日暮里から常磐線、我孫子で成田線に乗って新木駅で下車すればいいとのこと。成田線は1回だけ乗ったことがあるが、新木という駅名は初耳だ。
駅前ではタクシーを呼べば、5~10分で着く、という。たしかにそうだった。駅から一本道を進むだけであったが、歩いては無理。車が手賀川を渡って小高い丘を上った所に、樹々に囲まれ隠れるようにして香取鳥見神社が在った。
目的の石碑は奥の本殿の左手に静かに座していた。写真では光の加減で分かりづらいが、凝視すると確かに下記の文言が刻まれていた。
当社再建寄付
米三十俵 御領主松浦武広
金百両 江戸按鎮町 東国屋伊兵衛
金五十両 同町 鯉屋七兵衛
金三十両 千住河原 鮒屋新兵衛
天保六年六月
実は、史跡巡りの場合、この「凝視」が必要であると思う。忘れられた古社に、文字も薄れた古い石碑という鄙びた景色が、「金百両 江戸按鎮町 東国屋伊兵衛」の文字を確認したとたん、「鴨の聖地」に一変するからだ。
ところで、この鳥見神社というのは、手賀沼畔に計21社も分布しているらしい。白井市に7社、印西市に6社、印旛村1社、本埜村2社、旧沼南町(現柏市)に3社。
さらに、鳥見神社と同様に辺りに勢力を拡げていたのが、宗像神社である。宗像神社は、元は福岡県玄海町の水に関する神であり、印旛沼南側の台地に散らばり、印旛村に10社、印西市に2社、白井市に1社計13社が鎮座する。
しかもこの対の組合せの原型は、大和国の鳥見大明神(桜井市等弥神社)と、鳥見山北麓の宗像神社にあるという。おそらく、古代大和を追われたある種族が、手賀沼畔に棲み着いたという古代の出来事があったのだろう。
「手賀沼」の「テガ」というのはアイヌ語で「鷲」という意味だそうだ。ようするに昔から鳥がたくさん集まっていたというわけだ。とうぜん住み着いた民たちは鳥猟で生きていくことになり、やがては技を得とくして、14世紀ごろには鴨猟のうちの、流モチ縄(ボタ縄)法を沼畔の布瀬村の民が発明したそうだ。ボタ縄猟というのは、茅から作成した魅くて強力な縄に鳥黐を付け、晩秋から冬にかけての暗夜に湖沼に浮かべて、水鳥を捕獲するという猟法で、張切網と併用されたというが、資料の受売りなので、その方法がどんなものかは想像つかない。
東国屋伊兵衛という人物は、男伊達で売り出し、一代で江戸一の鳥問屋にした男であった。天保六年(1835年)は笹屋が《鴨なん》を創作してから25年、伊兵衛と笹屋の交流もあったかもしれないなどと想像を描くのも史跡巡りの楽しみのひとつであるが、江戸後期の生産者(鴨猟者)、流通業(鳥問屋)、店舗(蕎麦屋)という体制で蕎麦屋経済が成立していだろうことが、この石碑から見えてきたのが今日の収穫である。
《余談1》
我孫子駅のホームで電車を待っていたら、立食い蕎麦店が目に入った。近づいてみると、山下清が昭和35年ごろ働いていた店と説明してあった。もちろんこの駅のホームの立ち食い店のことではなく、我孫子駅前にあった蕎麦屋で働いていたということである。思わず入って、「そうか、そうか」と思いながら、蕎麦を食べた。
後で齋藤さんに報告したら、そのエピソードは有名で我孫子へ行った人はたいてい食べるのだという。知らなかったが、画家山下清の挿話として面白かった。
《余談2》
東国屋伊兵衛の子孫は明治になり、「伊」兵衛と「東」国屋の文字をとって「伊東」姓を名乗った。その伊東家に夏子という娘がいた。彼女と作家の樋口一葉(本名:樋口夏子)は、お互に「イナッちゃん」「ヒナッちゃん」と呼び合う仲であったという。伊東夏子は若くして亡くなった樋口夏子の葬儀にも出ている。その後、伊東夏子は山口へ嫁いていったらしい。
《余談3》
靖国通りの専修大交差点(神保町駅付近)あたりに「東国屋」というトンカツ屋兼肉屋があったが、いつのまにかなくなっていた。あの店は江戸の東国屋と縁のある店だったのだろうか。
〔江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる〕