第923話 女と男の波の塔
2025/01/15
「清張膳」の会
松本清張に『波の塔』という作品がある。美貌の人妻頼子と新米検事小野木の狂おしいほどの愛の物語である。
二人の登場は新緑の昼間の深大寺に始まり、晩秋の夜の深大寺で終わるから、深大寺そば学院と関わりのある者としては放っておけない。
しかも、始まりの舞台は親しくさせてもらっている浅田さんの店「門前」。店内では小野木に好意をいだいている輪香子が、女子大時代の友人と深大寺名物の蕎麦と虹鱒を楽しもうというところ、そこへ店から見える深大寺の茅葺の山門の石段から頼子と小野木が下りてくる・・・。
このように、なぜ「門前」が舞台かというと、松本清張は取材中度々「門前」を訪れて、蕎麦はむろんのこと虹鱒や山女の塩焼を食されたという。
そこで「門前」では、12月のある日、「清張膳」の会を企画された。
さっそく私も、ソバリエの「尚」さんと「学」さんと参加した。他の卓にもソバリエさんが友人と見えていた。奥の席にぱ前住職夫人や近くの喫茶店「まいあ」のママさんの姿が見えたのでご挨拶をした。ママさんは珈琲豆で似顔絵を作成する人で、私の似顔絵も作ってくれたことがある。
今日の「清張膳は、戸隠の《新蕎麦》と奥多摩産の《山女の塩焼》はもちろん、天麩羅や山菜に能登の酒、特別サービスとして秘密の《蕎麦掻》、締めは《蕎麦汁粉》となっていた。
山女はほどよい大きさで、お酒は美味しく、新蕎麦も、蕎麦掻も、そして蕎麦汁粉も各々よい食感だった。
ここで、「学」さんが「『波の塔』ってどういう意味だと思うか?」という問題を提起した。確かに小説を読んでみても、何が波で、何が塔なのか、わからない。それで店主の浅田さんをよんで、「清張さんから何か聞いてない?」と尋ねたところ、「清張さんに訊いたんだよ。でも『別に意味はない』と言われたよ」という返事に一同大笑い。
あんがいそうかもしれないが、しかし清張は巨匠である。何か意味があるだろうと思いたくなる。
読後感としては、人間としての愛欲と、社会人としての理性の間で寄せては返す波のように二人の心が揺れていたことを覚えている。
そこで帰宅してから久しぶりに読みなおしてみたが。やはりそう思えてしかたがない。
そもそも恋というものは、ロミオとジュリエットの話ではないけれど、禁じられているからこそ燃えるようだ。たとえば昔は家系的に敵同士、身分の違いなど、現代では社会的立場の違いのある男女が恋に落ちることもあるだろう。その炎上のさなかに、一時の理性で立ち止まることがあって炎はしばし鎮まるものの、やはり会いたい。離れたくない、放さないと再び火がつくことの繰り返し。
人妻頼子と検事小野木もそうだった。頼子は人妻であることなどの素性を一切明かさないで「わたしだけを見ていて」と言う。小野木も彼女が人妻ではないかと薄々感じ始めているものの、それを口にすれば別離が訪れることを恐れて触れようとしない。秘密をかかえた二人だからこそ、さらに狂おしくなる。
と、これだけだと松本清張らしくない。そこで頼子の夫は何者かということになる。
明かせば、彼は政界の裏で暗躍する政治ブローカーだった。汚れた金で邸宅に女中二人を雇って頼子を住まわせ、他に愛人を何名も抱えているため、ほとんど自宅には帰らない。しかもいい男で少し影があるためか、玄人の女によくもてる。政界の闇を暴く社会派作家の松本清張にとっては、大嫌いで許せない男である。そんな清張に代わって、頼子の父親が娘に向かって、「もう少しましな男と思って、お前に見合いをさせたが、何の努力もしないで、金に鼻が効くだけの、最低の男だ。お前がその気なら、いつでも戻っておいで」と怒りながら、謝った。
こうして物語の後半は清張らしく汚職事件として展開する。
そのころ、小野木が勤務する東京地検はある汚職を追っていた。その最後の詰めのころから小野木もチームに加わるよう指示があった。
地検は頼子の夫結城の関係者を次々に引っ張っていた。そのなかに役人である、輪香子の父親もいた。
そしてある日の早朝、地検は愛人宅に泊まっていた結城を襲った。結城は、何人もいる愛人のことも地検は全部調べていたのかと内心驚き,おとなしく捕まった。一方で、彼は復讐の矢を放っていた。愛する妻を奪った小野木という若造を許さない、と。裏社会に棲む結城は、貴婦人のような頼子に劣等感をもちつつ、彼は彼なりに頼子を愛していたようだ。ただそれは歪んだ愛だった。
一方の小野木は上司から指示され、結城邸の家宅捜査に出陣した。
そこで出会った結城頼子と検事の小野木。小野木は初めて頼子の正体を知った。二人の破局の瞬間だった。
結城の逮捕後も、やはり小野木は頼子に会いたかった。頼子も小野木に会いたかった。頼子は想い出の深大寺に行きたいと言った。二人は晩秋の深大寺を歩いた。夜だった。二人は抱き合った。だがその姿を結城に頼まれた探偵が撮っていることにまったく気づいていなかった。
数日後、抱擁する二人の写真がマスコミに流され、小野木は法曹界から追放された。
頼子は新宿駅から独りで富士の裾野に向かっていた。
二人で死のうと言ってくれたのは小野木からであった。頼子は小野木の意思を知って幸せだった。
しかし頼子は独りで電車に乗った。
わたくしはあなたが語ってくれた富士の樹海で果てます。今ごろあなたは東京駅でわたくしを待ち続けているのでしょう。あなたはそういう人。
それを思うと、頼子は引き返したい気持を必死で押さえつけなければならなかった。
でも、あなたならやり直すことができます。わたくしとの危険な愛に飛び込むくらいの勇気のある人ですから。
夫の方は何と思うのでしょう。小野木との情死でないことに安堵するかしら。でも樹海に消えたと聞いてもその意味は理解できないでしょう。あなたはわたくしを飾り物のように遠くから眺めているだけで、わたくしのことは何も知ろうとしなかった。
これは頼子の夫への恨みにちがいなかった。しかし恨むということは、頼子の心がまだどこか妻の座にあるということでもあった。籍とは、それほど重いものであった。
だからだろうか頼子は、もっと早く籍を抜いていれば、小野木にも結城にも迷惑をかけなかったかもしれないと後悔しながら、いま夫とも愛人とも決別した。
旧姓に戻った頼子は、独りで富士の樹海へ向かった。
頼子の耳には、亡き父の言葉があったのかもしれなかった。
「いつでもいいから帰ってきなさい」。
浅田さん、「尚」さん、そして「深大寺は頼子と一緒に来る所」と言って笑っていた「学」さん。
波は愛に揺れ動く頼子の心情。塔とは男たちを愛し、愛された頼子が樹海に建てた記念塔。
ということでいかがでしょうか。
清張膳
深大寺そば学院學監
江戸ソバリエ協会理事長
ほし☆ひかる