第443話 蕎麦の花 粋な仲間と楽しくやろう

     

「AKB48」の風!

大阪ソバリエの砂野さんが「うめきたSOBAプロジェクト」というのを立ち上げられた。事業内容は、大阪のド真ん中である梅田に蕎麦の花を咲かそうというのである。ただし「種蒔きに来られない人は、自宅のプランターなどで種を蒔き、ある程度芽が出たら、送ってください。後は、こちら育てましょう」というものだが、真の目的は「ソバの栽培を通して一緒に繋がりましょう」という素晴らしい趣旨だ。
応募すると、「うめきたプロ」から、福井大野在来の種と菜園用の土が送られてきた。さっそく9月3日に蒔いたら6日には芽が出た。背が伸びたとき送り返せば梅田の畑に植えられることになっている。

蕎麦の栽培で思い出すのは、20年ほど前、松本市在住の先輩から「市郊外の山形村で蕎麦畑オーナーを募集しているから、応募しないか」と誘われたことがあった。歌い文句としては、種蒔き、草取り、収穫、収穫祭と4回信州に来るだけで蕎麦が育てられるということだった。東京の蕎麦仲間も何人か参加することになったが、当時は仲間たちもまだ在職の身で、思うように動けなかった。結局、収穫祭に参加するだけで、種蒔きから、草取り2回、収穫までのほとんどを先輩に依頼することになった。もちろん収穫祭では新蕎麦を食べ、お土産に林檎までもらって楽しかったが、単に観光に終わってしまったナと反省したものだった。

しかしながら、その反省から得ることがあった。
先ずは、やはり遠距離という壁は大きく、「仕事というのは食住接近にかぎる」ということを痛感した。
そして、その距離の遠さから、あらためて「町と村」について考える機会ができた。
歴史を見れば、江戸時代、城の周囲に武家・商家を集めて城下町とし、農民を郊外の田畑においてとしたのは職住接近からみても合理的だった。ただし、それは士農工商という身分制度と一対ではあったが、とにかく江戸時代の「町」と「村」は異なる役割を担いつつ、共存していた。

話は少し飛ぶが、日本人というのは、「時間にうるさい国民である」ということがよく言われている。とくに江戸時代にはそうだったようで、時を告げる鐘がよく売れていたこともその一つだったことが分かる。
鐘一つ 売れぬ日はなし 江戸の春」(其角)
こんな風で、江戸時代の日本各地には3万~5万の鐘が存在し、時を告げていたという。おまけに、お城の櫓太鼓までもが登城の時刻を知らせていたのである。
ということは、城下町の武士や町人は鐘(時間)で動き、通貨(社会)を相手に働いていた。一方、農村の民といえは自然暦で動き、田畑を相手に働いていた。
ト、こんな風に町と村は日常が違っていた。

だから、われわれの関心の高い食においては、町にある外食屋の料理と村の家庭の食べ物は、自ずから性質が違っていた。
とうぜん、「町の蕎麦」と「村の蕎麦」も違っていた。
つまり、「町の蕎麦」とは「蕎麦屋の蕎麦」であって、職人が商品として客に金銭と引き換えに提供する料理である。
「村の蕎麦」は、俗にいう「オラんちの、そば」であって、家庭の者が打って家族に食べさせる日常の食事である。
その「蕎麦屋の蕎麦」を明確にして「町方蕎麦」「江戸蕎麦」としたのは、われわれ江戸ソバリエである。
一方の「オラんちの、そば」は、謂わば「土産土法」(土地の産物、その土地の料理法)の視点によって今では「郷土そば」と言い換えられるようになった。

 ところが明治以降、いうまでもなく身分制度の崩壊と交通機関の発展によって食住接近も、町と村の区分けの意味も放置されてしまった。
放置されれば、強者が弱者を凌駕する。高度成長がそれを勢いづけた。すなわち都市(町)の論理が独走し、村の論理が崩れた。
気が付くと、自然暦で動いていた農村に、都市の論理が浸入した結果、村は農薬王国になっていた。
そもそもが、和食(もちろん蕎麦も)というのは日本人の自然崇拝の伝統精神を引継いで「食材を活かす」というのが基本としていたはずである。であるなら、食材も自然にちかい物でなければならない。
なのに、日本(3位)は、韓国(2位)、中国(1位)とともに、世界の農薬使用ワースト3 に堕ちてしまった。ちなみに、アメリカ・フランス・ドイツら欧米の農薬使用はひときわ少ない。どうやら「国産は安全」というのは逆風評のようだった。
子や孫世代を見ると、アレルギーをもつ子供たちが増えている。ここで、皆も何かがちがっていることに気付き始めた。

そこに新しい風が吹いてきた。
それは外国から上陸したスローフードロハス運動などであるが、それらは有機農法地産地消という考え方をふくんでいた。
スローフードは、作家の島村菜津さんが紹介し、2000年初め頃から「スローフード」「地産地消」ということが浸透していった。島村さんはそんな偉業をもたらした人とは思えないほど気さくな方だ。
ロハスはアメリカ発で、マーケッティグ志向をもっていたせいか、経済誌などが採り上げ、企業などが注目した。
その前に、日本にも大正期ごろから「身土不二」、「土産土法」という運動があったが、ほんの一部であった。
「身土不二」とは、身体と環境は切り離せないという風土論、「土産土法」というのは、その土地の産物はその土地の料理法でという謂わば「郷土料理」的考え方。そして「地産地消」はグローバル経済に対抗する地域経済論である。

そんな渦中の、2002年にわれわれは江戸ソバリエ認定事業を立ち上げた。
それから少し経ったころ、大竹先生(江戸ソバリエ講師)が「江戸東京伝統野菜研究会」を始められた。
さらには、知人が関係していた銀座蜂蜜プロジェクトや、親しくしている成田先生新宿で「内藤唐辛子プロジェクト」を立ち上げた。
そして平林さんらソバリエ仲間が昨年から都内の「公園に蕎麦の花を」をテーマに「猿プロ」を立ち上げた。そしてこの度は砂野さんの「うめきたプロジェクト」。またまだ他にもたくさん動いていることを聞いている。

ここで2000年代を振り放け見れば・・・・・・あちこちに眼を向けるところが、私のわるい癖であるが・・・・・・ある番組で、タレントの森あんなさん三秋里歩さんとお蕎麦を食べる機会があったときに感じたことを思い出した。
いずれのときも「元AKBです」と、それはまるで「AKB学園卒」という履歴のような、あるいはブランドのような紹介だったことに、その方面に疎い小生は少々戸惑ったものだが、それはいいとして、2005年に秋元康氏プロデュースで始まったこの「AKB48」は、それまでのつんく氏プロデュースの「モーニング娘。」とは性質が違っているのではないかと思った。つまり、東京(秋葉原)で立上がった「AKB48」は、その後も名古屋(栄)・大阪(難波)・福岡(博多)・新潟、そしてジャカルタ・上海・バンコク・タイペイ・マニラと、日本やアジアの都会=地域を基盤としていることに気付き、これが‘今の時代性’だろうかと思ったものである、

一方、いま胎動している農やsobaプロジェクトもまた都会=地域という‘現代性’を帯びているといえよう。
それは江戸時代の町村制ともちがう。明治以降のオール都会志向ともちがって、各々の地域が自律心をもって自立しようとしている芽を感じる。
これらの胎動の是非はまだまだ不明であるが、私は将来を楽しみにしている。

《注釈》
*この「蕎麦畑オーナー」事件の反省から、江戸東京では蕎麦栽培は理解も行動も困難だろうということで、この後に始めた江戸ソバリエ認定講座の科目から蕎麦栽培を外した。
ただし、可能な場合もあるだろうということで、キャッチコピーにはニュアンスだけ加えた。それが「蕎麦の花 手打ち 蘊蓄 食べ歩き 粋な仲間と楽しくやろう」である。

《参考》
*石田梅岩『都鄙問答』(岩波文庫)

〔文・写真 ☆ 江戸ソバリエ協会 理事長 ほしひかる