第450話 鎌倉革命

     

 ~ 「運慶」展 ~

☆革命児 運慶
「ここにいると元気と勇気がわいてくる」。
ご一緒した金井さん(江戸ソバリエ・ルシック、蕎麦喰地蔵講代表)に、私が声をかけたのは、「運慶」展の会場だった。
周りには、四天王、十二神将、不動明王、毘沙門天、大威徳明王、八大童子、それに鬼たちもいる。彼らの肉体は引き締まり、筋肉は隆起、眼球が何かを睨みつける。ただ、背後から見る肩あたりには人間味が感じられるから、まるで生きた武将、力士、格闘家たちに取り囲まれているようである。むろん、いずれの彫像も運慶工房による制作だ。

日本における仏像制作は、ⅰ)飛鳥時代の、鞍作止利の工房に始まる。すなわち北魏様式といわれる飛鳥大仏や法隆寺の釈迦三尊などである。
小さな仏像は自ら渡来することができるが、大きな仏像はそうはいかない。だから、日本で製造することになる。そうした場合、渡来人のうちの仏像制作のできる者を集めて制作に当たる。それを指揮したのが止利だといわれている。
先日、NHKテレビの番組『歴史ヒストリア』で飛鳥大仏は聖徳太子がモデルだと解説していたが、蘇我入鹿が中大兄の皇子に討たれてから、蘇我一族の庇護にあった止利工房も廃れ、ⅱ)別の工房が白鳳仏というやや国風の仏像を造るようになり、ⅲ)それからさらに国風の天平様式仏像へと変化していった。
ⅳ)運慶(?~1224)という人は、その天平様式をさらに打破り、鎌倉様式を産み出した仏師である。
その過程については、松本清張が小説「運慶」の中で次のように描いている。
1)若いころ、高野山の遍照院の一隅に粗っぽい大日如来像が忘れたようにして置かれていた。それは祖父康朝の作であったが、願主に気に入ってもらえず、ここに放置されているという。しかし、運慶はその粗っぽさに生命を感じた。
2)やがて、北條時政(1138~1215)が伊豆の願成就院(1189創建)に安置する不動明王と毘沙門天の脇侍の制作を運慶に依頼してきた。運慶にとっては、脇侍ということがよかった。運慶が彫る忿怒相の荒々しい具象像は、政治を力で闘いとった豪腕の鎌倉武士たちの心をつかんだのである。
清張は「一隅」とか、「脇侍」とかという言葉を使って貴族の門番でしかなかった武士たちと、非主流の仏師だった運慶の、「革命」を表現したかったのであろう。

さて、会場で鎌倉時代の熱気に酔いしれているうちに、私たちは金色の大日如来座像に出会った。
「オーラが発している」と金井さんが言ったが、まさにそうだった。しかも、この像はかつて金井さんと観に来たことがあるから、再会の仏像ということになるが、そういうわれわれはさしずめ江戸ソバリエ仏像鑑賞部員といったところだろうか。
ところが、大日如来座像はこれだけではなかった。少し離れた所にもう一つ在した。比べると、初めの方がやはりオーラが強い。
この二つの坐像は、いかなる道をたどってきたのだろうか。
聞くところによると、前者は足利市の北にあった樺崎廃寺(1189年、足利義兼が創建)のご本尊だったという。それがなぜか海外に流出しようとしているところを真如苑が14億円で買い取って、現在は同苑所蔵となっている。
後者は樺崎八幡宮(1199年、足利義氏が創建)にあったものだが、廃仏毀釋の台風でほんとうに廃仏になろうとするところを救われ、現在は足利市の光得寺が所蔵しているという。
この樺崎の地に寺社を創建した足利義兼(1154~97)と義氏(1189~1255)は父子である。そして、義兼の七代目( → 義兼 → 義氏 → 秦氏 → 頼氏 → 家時 → 貞氏 → 尊氏 → )が尊氏だから、この大日如来像は、将軍家を生んだ足利一族の守護仏に当たるといえるかもしれない。
それはともかく、北條時政が運慶に制作を依頼したのが、1186年ごろであるとされているから、1189年創建の樺崎寺の本尊も同じころ着手していたのかもしれない。
時政と義兼ら鎌倉武士と、運慶・・・。革命の主役たちが出会った時代、それはどんな時代か?

☆革命の武士団
話を平安中期に戻すと、そのころ武士が登場していた。当初は源氏・平氏を中心とした宮廷や荘園を警護する兵士であった。しかし、平安末期から鎌倉時代にかけ、その武力ゆえに武士は力をもつようになった。その過程で武士たちは地方の土地を開墾していく。
とくにそれは武蔵野で顕著であった。その土地は肥沃で、馬の放牧にも適していたが、未だ荒野、そこは重畳する丘陵や小河川流域の狭小地域であった。したがって、その地を開拓するのは小武士団。それゆえに彼らには独立性が担保されていた。
開拓武士団のうち、秩父にやって来た平氏は秩父氏となり、その支流が河越に行って河越氏となり、豊島郡に行った者は豊島氏に、葛西郡へ赴いて葛西氏に、江戸へ辿り着いた人たちは江戸氏・・・、とその地名を名乗ってゆく。それはいわば縄張宣言みたいなものだが、新しい武士の氏族はこうして北海道を除く全土に誕生したが、とくに武蔵野の武士団は「武蔵武士」と呼ばれ、彼らは源頼朝の挙兵に従った。
そうして1192年、頼朝が貴族に代わって武家政権を鎌倉にうち立てた。
ここで個人的なことであるが、わが祖先齋藤基員は京から武蔵国へやって来て、東松山市野本を開拓、やがては頼朝の御家人となった。
1221年、基員の子息時員(母は河越重頼の娘淡路局)が、九州島原の地頭に任じられた。
とはいっても、当時は任命するだけ。現地の人たちも知らぬことだし、知ったとしてもおとなしく迎え入れるという保証はまったくなかった。要は、島原地区を制圧せよという命令書に等しかった。
が、残念ながら、わが先祖は島原を制することなく、正史から消えた。続く1246年に越中氏が任じられたが、同氏もまた敗れた。鎌倉幕府は次から次に任ずるが、多くの御家人たちが消え去った。角界でいま人気の力士「正代」の祖先も、東松山市正代を縄張とする武蔵七党小代氏であったが、頼朝の御家人となって九州に赴いたが、やはり負けた。
もちろん現地制圧に成功した御家人たちもいる。たとえば、薩摩の島津氏、豊後の大友氏、中国の毛利氏らである。勝ち残った地頭は数少なかったが、それだけに勝利した氏族は大勢力となった。
しかしながら、武士の本願は、行動と戦闘が誇り、勝敗は二の次であった。その熱気が時代を動かした。それを運慶は仏像で表現したのである。

☆食革命
「ちょうど『つるつる物語』の続編を書き上げたところ」。
伊藤汎先生と江戸ソバリエ・ルシック寺方蕎麦研究会代表の小林尚人さんと、三人でお会いすることがあったとき、伊藤先生がそうおっしゃった。
三人とも歴史が大好きだから、いつまでも話が弾む。
先生は常々、食材、道具、食法がセットで伝わったとき、食革命が起こるとおっしゃっている。
そういう意味で、鎌倉時代というのは、挽臼が伝来し、穀物類の(ⅰ)「粒食」から、(ⅱ)「粉食(麺食)」への大変化を招いた時代である。
そして付記すれば、幕末・明治からそれは(ⅲ)「焼く粉食(パン)」の大変化へ推移した。
というのが、伊藤先生の論であり、われわれ江戸ソバリエのバックボーンでもある。
それは時代的にも、Ⅰ)前時代の貴族政権が崩壊し、Ⅱ)鎌倉に武家政権が誕生したこと、Ⅲ)そして幕末に武家政権が崩壊した明治維新以降は民主政権へと移行した革命と符合が一致している。
さて、Ⅳ)次なる時代は、何が主役か? 運慶に尋ねてみようか!

《参考》
*「運慶」展(東京国立博物館)
*自費出版『夢想 吾妻鏡』

〔文・絵 ☆ ほしひかる
〔江戸ソバリエ・ルシック 寺方蕎麦研究会・江戸ソバリエ・仏像鑑賞部〕