第201話 「蕎麦はなぜ昔に還らぬか」

     

食の思想家たち十九、村瀬忠太郎

 

  「蕎麦は大衆の食べ物だ」と、勘違いしている方がよくいらっしゃるが、それは明治以降のことで、江戸時代はそうとはかぎらなかった。

 「更科蕎麦」伝説でも大名蕎麦があったことが知られているが、「藪忠」店主村瀬忠太郎の証言からでもそれはうかがえる。

 村瀬忠太郎 ― 蕎麦通なら一度は名前を聞いたことがあるだろう。

  「私は安政六年十一月十六日江戸赤坂新町五丁目の一角に営業いたしておりました蕎麦屋養老庵で初声を揚げた者で、今年七十二歳に相成りまして最早耄碌仲間へ入りまする年頃でございますが、蕎麦屋で生まれて蕎麦屋で老い朽ちまする身の思い出を一言述べさせていただきます」で、始まる貴重な本『蕎麦通』を遺した人である。

 この本は、村瀬忠太郎が口述し、高岸拓川という文士が筆記したものであるが、数々の歴史証言が残されている。なお、拓川は忠太郎を「蕎麦打ち名人」と惚れ込んで、各界著名人に紹介しているぐらいであるから、この本のゴーストライターを引き受けたのであろう。

 一) 忠太郎の父は元美濃大垣藩戸田釆女正に仕えた武士だったが、両刀を捨て、麹町「瓢箪屋」で諸家御用の蕎麦の打ち方を習って、蕎麦職人になった。

 二) 一帯は屋敷町だったので、松平出羽守、吉川堅物、毛利淡路守、谷大膳太夫、岡部筑前守の屋敷旗本の水谷八之丞、水谷弥之助、小見山儀三郎らに贔屓してもらった。

 三) とくに毛利淡路守の親類の堀長門守のお姫様に贔屓にしてもらって暖簾を「美濃屋」から「養老屋」にしたらどうかと命名してもらった。

 四) 「お屋敷方へ蕎麦を調進いたしまするには、当今のような種物は一切お用いなく」、春はなずな切、若草切、荒磯切。夏は木の芽切、芥子切。秋は菊切、いも切。冬は茶蕎麦に柚子切、蜜柑切。四季を通して、らん切、白らん、鯛切、海老切、貝切。雛の節句には五色蕎麦。汁の塩梅もお屋敷向きに仕立てていた。

 五) 「徳川様の天下瓦解後は、古い物は神社仏閣すらも見向きもされなくなったこのご時勢、大名の召し上がった蕎麦も注文はなく」、二八か駄蕎麦の大衆受けするものだけが売れてきた。

  忠太郎は、この本の中で「蕎麦はなぜ昔に還らぬか」と吐いているが、それは上述のことからでもうかがえるだろう。

 それゆえに私は、これを『蕎麦切歎異抄』と呼び、何事も原点回帰は必要なことと考えている。

  ところで、この本には「滝野川町中里 藪忠老人」とあるが、「藪忠」は実際何処に在ったのだろうか? 蕎麦通としては気になるところである。

 駒込にお住まいの稲澤大先輩は、「だいたいここら辺にあったと聞いている」と駒込駅へ行く途中辺りを指してでおっしゃったことがある。

 では、「具体的な番地は?」と北区の図書館と区役所に相談したところ、「田端文士芸術家村」関連の資料の中に「中里199番地(現:中里2-23)」と記してあると示してくださった。

  獅子文六は、大正の終わりか、昭和の初めのころ、仲秋の名月の夜に滝野川の蕎麦屋で蕎麦会が開催されたとエッセイに書いているが、蕎麦屋の名前はない。しかし、その店が「藪忠」だったことは大方の一致するところである。ちなみに、その席には、佐藤春夫、久保田万太郎、幸田露伴、上田万年らの顔があったという。

 余談ながら、近くの田端には大正年間に「浅野屋」という旨い蕎麦の店があった。すぐ近くには室生犀星や芥川龍之介も住んでいて、犀星宅には出前をし、龍之介は浅野屋の《天ぷら蕎麦》を贔屓にしていたらしい。行ってみると、駅からそう遠くはなかった。

 それはともかく、この村瀬忠太郎を、後に「蕎聖」と呼ばれるようになった片倉康雄(「一茶庵」)に紹介したのは高岸拓川であった。昭和4、5年ごろのことだろう。拓川の読み通り、片倉康雄は、忠太郎の思い「蕎麦はなぜ昔に還らぬか」の志を見事に引き継いだ。

 そのことを知ったら、いま薬王院で眠っている拓川(?~昭和11年)は、安堵することだろう。

「食の思想家たち」シリーズ:(第201村瀬忠太郎、200伊藤汎先生、197武者小路實篤、194石田梅岩、192 谷崎潤一郎、191永山久夫先生、189和辻哲郎、184石川文康先生、182 喜多川守貞、177由紀さおり、175 山田詠美、161 開高健、160 松尾芭蕉、151 宮崎安貞、142 北大路魯山人、138 林信篤・人見必大、137 貝原益軒、73 多治見貞賢、67話 村井弦斉)、

 

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる