第465話 元旦だから、箸の話から始めよう

     

~ 「賞味期限」付きのお箸 ~

元旦に孫がやって来た。玄関まで迎えに行くと、ニコニコしながら走ってきて懐に飛び込んできた。可愛いチビ天使を抱きしめるこの瞬間は幸せの時であるが、幼い身体を抱きしめたこの感じ、どこかで記憶がある。そう。思い起こせば、孫の身体の感触は幼時の息子や娘と同じだ。これが血筋というものだろうかといつも感慨深い。
そういえば、年末の帰省ラッシュを報じているニュースでも、駅に迎えに来たジジ・ババと孫がハグしている場面がよく映し出されている。それを見ていると、幼児たちはちゃんとわきまえ、ジジとババに等しくハグしている。たいしたものだというよりか、ハグの習慣も日本に定着したものだなと感心してしまう。
私の子供や、私自身が子供だったころは、あまりこういうことはしなかった。むしろ、どちらかといえば、「ほら抱っこしてやるぞ、こっちへ来い・・・」などと手を差し伸ばされても、恥ずかしくてモジモジしていたものだった。
私の母方の祖父は校長職を務めながら、折を見ては民話のような小説を書いたり、絵を描いたりしていたが、子供にも優しかった。でも、無理矢理に抱っこされても、心地よくないので、私はすぐ逃げ出していた。
父方の祖父母は早くに亡くなっていたので、顔は知らないが、正月に田舎の本家に新年の挨拶に連れて行ってもらったとき、屋敷の広さに驚いたものだった。とくに玄関を入ると、叩きの土間があったが、幼い者にとっては、運動場のように広く見えた。その一角に作業場のような所があったのが、なぜか記憶に残っているが、長じて訊いてみると「うどん打ち場」だったらしい。こうして蕎麦に関わっている現在、そのことを思う度に「面白いな」という感想をもっている。

さて、御節料理を前にして、今年は二種類のお箸を用意した。
一つは、毎年石綿様(江戸ソバリエ・ルシック)から頂くお手製の干支の箸袋に納められた柳の利休箸。もう一つは、割ると金箔がはらりと落ちるというめでたい割箸。だからそれはお料理の上で二つに割る物らしい。ならば金箔は黒豆に映えるだろうと思って、黒豆の上で二つに割ると、金箔がはらりと舞って、めでたしめでたしだった。
箸袋の裏を見ると、ちゃんと「賞味期限」が明示してある。私の箸コレクションの中で、賞味期限付きのお箸というのは初めてだ。
孫といえば、そんな箸なんかには全く関心を示さず、ひたすら自分の好きな物だけを口に運んで上機嫌。当然といえば当然のことだろう。

ところで、私は「箸」の話をするとき、も、も、も、も、めも、めも、語源は同じであろうと言っている。だが、それを「オヤジ・ギャグだ」と笑ってはいけない。なぜなら、縁起がいいとされるものだって、みんなダジャレから生まれている。めでたい(鯛)、男振り(鰤)、喜ぶ(昆布)、橙(代々)、ゆずり葉(次へ譲る)、裏白(心の中も真っ白)・・・、なんで掲げたらキリがない。これを指して「日本は言霊の国」という。
それに、「元旦」にも意味がある。つまり「元」は「はじめ」のことであり、「旦」は「夜明」である。
だから、大晦日End(=端Hashi)の除夜の鐘が鳴ると、元旦Biginning(=初めHajime)がくる。
そんなわけで、一年の初めの元日こそ、「箸」の話がふさわしい。

さてさて、料理を一通り食べ終わったところで、近くの吹上稲荷と護国寺へ初詣にでかけた。
護国寺の池には大きな錦鯉がたくさん泳いでいる。孫が覗くと、金と銀の70cmぐらいの大きな鯉が二尾、寄り添うように並んで、ゆったり孫に向かって泳いでくる。孫は目を輝かせて大喜び。続いて、御神籤所に行って、孫がひいた御神籤は「一番 大吉」。「大吉」の上に「一番」まで付いている。こいつぁ春から縁起いい。これも金箔付きのお箸のせいだろうか。

〔文・写真(御節料理) ☆ エッセイストほしひかる