第468話 奥の蕎麦切

      2018/01/21  

☆「第4回うつくしま蕎麦王国フォーラム」で講演するために、白河に行くことになった。
その白河は蕎麦処と聞いている。また隣の須賀川は松尾芭蕉が可伸庵で蕎麦切をご馳走になっている所として知られている。
そこで、このことを講座資料に入れるため、白河藩主松平定信の墓と、芭蕉像の写真を撮りに深川へ行ってみた。
幸いに二か所ともに半蔵門線の清澄白河駅を下りてすぐである。定信候の墓は江東区白河の霊岩寺。もちろん地名の「白河」は定信候にちなんで付けられた。そして少し離れた所に仙台堀川が流れているが、その近くに芭蕉翁の石像と、ここから『奥の細道』へと旅立ったという「採荼庵」跡があった。

◎元禄二年(1689年)三月二十七日、松尾芭蕉(46歳)は曾良を伴い、深川の採荼庵を出て、近くに流れる仙台堀川から舟に乗り、隅田川を経て千住で陸に上がって奥の細道の旅に出た。
【行く春や 鳥啼き魚の 目は涙】(千住にて)
これが旅の初日の句であった。

◎四月二十二日、芭蕉と曽良は白河の関に着いた。

☆昔から、白河の関までは東の国、これより奥は陸の奥といわれていた。だから、芭蕉は旅日記を『奥の細道』とした。
その白河が蕎麦処といわれている所以は、1783年ごろ白河藩主松平定信候が追原に見えて、蕎麦を食し美味しかったので、栽培を奨励したからだという。
この定信候は、1787年~1793年は老中職に就いていた。むろんその前から江戸に詳しかった。
その当時、江戸城では、高遠藩が1722年から《寒晒蕎麦》を将軍家へ献上。続いて高島藩が1789年から《寒晒蕎麦》を献上し始めていた。さらには、1789年に麻布永坂で「御前蕎麦 更科蕎麦」が開業している。
江戸城に勤務していた定信は、高遠藩や高島藩の信州の蕎麦産業の状況を把握していたにちがいない。だから追原の蕎麦生産を勧めたのだろう。
以来、追原では蕎麦栽培が続けられたらしいが、当日の昼食はその追原蕎麦だった。打ったのは追原そば生産組合事務局長&「そば処 追原庵」の金田裕二様だった。当日は100人ちかい蕎麦を用意されたから大変だったろう。大人数の場合、どうしても茹で立てではないから蕎麦の味が分からなくなるが、甘味を感じる蕎麦だった。
では、江戸中期の頃、定信候が口にされた蕎麦はどんな味がしたのだろうか?
当時の江戸では《夏蕎麦》はあまり歓迎されていなかった。だから夏用の《寒晒蕎麦》が喜ばれた。そして蕎麦切は二八の細切、それにともなって打ち方も江戸式が考案されていた。汁は鰹出汁+返しという、現在にちかいつゆが誕生していた。町の蕎麦屋では温かい《かけ蕎麦》が生まれ(1789年頃)、また深川の「伊勢屋」はお一人様用の《ざる蕎麦》を売り出し、江戸っ子の評判をとっていた(1791年)。
白河にも、そんな江戸蕎麦が伝わっていたのだろうか、それともこの地方に伝わる蕎麦切だったのだろうか。興味深いところである。

◎四月二十三日、芭蕉と曾良は須賀川の豪家・等躬 (相楽伊左衛門・53歳)を訪ねた。
そして翌日は、等躬の紹介で僧・可伸(号:栗斎・本名:矢内弥三郎)の庵を訪れた。可伸は大きな栗の木陰の庵に閑かに暮らしていた。芭蕉は可伸の人柄とその隠栖暮らしに深く共感し、翌二十三日に連俳一巻を巻いた。
【世の人の 見付けぬ花や 軒の栗】(須賀川にて)
その折、等雲(吉田祐碵)が会席を設け、蕎麦切を振舞ってくれた。

☆等雲が振舞った会席の蕎麦切はどのようなものだったか?
これはあるていど頭の中で再現できる。
現在「江戸蕎麦」といわれる「江戸の蕎麦屋の蕎麦」は江戸中期ごろ完成したとされる。二八で、細切で、喉越しがよく、旨いつゆに付けて啜る蕎麦である。
しかし、それ以前の江戸初期までの古蕎麦は、料理の後段として供され、「寺方蕎麦」とよばれものであった。つまり、生蕎麦を垂れ味噌で、和えて食するものであった。おそらく、芭蕉らの席でもそんな蕎麦切が供されたにちがいない。蕎麦粉は追原の産で、打ち方は古流。料理の材料は地元産だったのだろう。
ちなみに、芭蕉は蕎麦の本質をよく理解していたらしく、後年、京の嵯峨野の「落柿舎」で弟子たちに「俳諧と蕎麦切は江戸の水に合う」と説いたと伝えられている。

☆芭蕉と曾良は須賀川に遊び、七泊した。この長い逗留は、白河の関を越え、奥の国への旅の始まりに感銘してのことだとされている。
二十九日、二人は旅立ち、平泉、立石寺、最上川、出羽三山、象潟、越後路、金沢、敦賀を経て、大垣に着いた。日数150日、旅程600里にもおよぶ、大いなる「細道」であった。

◎「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」で始まる「奥の細道」の旅は九月六日に終わった。
【蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ】(大垣にて)
旅の初日千住での句は「行く春」であったが、最後の大垣での句は「行く秋」であった。

《参考》
*芭蕉『奥の細道』
*支考『十論為弁抄』

〔文・絵(可伸庵) ☆ エッセイスト ほしひかる