第491話 狐のたわこと

     

北京紀行-本編4

「若い学生さんたちは、蕎麦だけでは少ないでしょう!」
メンバーの北川さんの提案で、北京では《狸蕎麦》+《蕎麦いなり》を振舞うことにした。
「おいなりさん」、つまり《薄揚》(=薄切りにした豆腐を油で揚げた物) を甘辛く煮たものは東京から持参し、お蕎麦は、縁があって知り合った北京の蕎麦店「蕎麦人」さんで打って、きゅうりのキューちゃんと一緒に詰め、いえば「狸と狐のセットにして振舞った。
北京の中学生も大学生も「美味しい、美味しい」と笑顔で、食べてくれた。
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ところで、この《薄揚》を使った【狐物】には、《蕎麦いなり》《いなり寿し》《狐うどん》や《狐蕎麦》などがあることはご存知だろうが、実はそれらも【狸物】と同様、いつ誰が始めたか、あまりはっきりしない。
《狐うどん》が大坂の名物だから、漠然と【狐物】すべてが大坂発と思われている。しかしそれはいつごろ登場したのか、由来などどうなのかについては不明のままの風評的な関西説である。
そもそも《油揚》というのが始まったのは江戸初期に中国の隠元がもたらした普茶料理からだろう。その《油揚》には《厚揚》と《薄揚》がある。呼び名は地域によっていろいろだが、現実はこの呼び方が分かりやすい。
江戸料理に詳しい福田浩先生(江戸ソバリエ講師)によれば、《薄揚》なんて面倒なことはたぶん日本人の発明だろうとおっしゃる。
そこで小生が想うに、文化の日本化とは、すなわち江戸化であることが多い。
たとえば、西日本にあるときは、外国色を残した食べ物であった蕎麦、鮓、天麩羅が、江戸に流入してきてローカル化したとき、初めて外国色を脱して和食に変身した。すなわち【江戸化⇒和食化】という文化図式を想定すれば、《薄揚》も江戸人が始めたのではないかという考え方もあるだろう。
現に、「狐」や「稲荷」の別名である「信太・志乃田」という語は、江戸時代の江戸には見当たらないと食評論家の植原路郎は指摘している。
それに、江戸だって狐伝説は結構多い。
*水海道弘経寺の修行僧だった祐天上人は成田新勝寺で「狐落し」の呪法を会得して人気者となり、江戸城大奥の桂昌院の支持を取付け、伝通院17世住職(1704~10)、増上寺住職と出世した。現在、東横線祐天寺駅近くにある祐天寺は上人の弟子が建てた寺だ。

*伝通院の塔頭慈眼院の澤蔵司稲荷が「蕎麦稲荷」という別名があることは、蕎麦通なら誰でも知っていることだ。

*大晦日に王子稲荷(東京都北区)に関東中の狐たちが集まって参詣するというくらい関東には狐が多く棲息していた。それを描いたのが広重の「王子装束ゑの木大晦日の狐火」である。

 

 

 

 

 

そんな江戸の狐・稲荷伝承の中、江戸人の式亭三馬撰・勝川春喬画の『船頭深話』(1806年刊)には、「菱屋」の蕎麦が《狐蕎麦》だったと明確に記してあるのも、宜なるかなと思う次第である。

《参考》
*「蕎麦談義」122話
*「花村」(明治25年創業)の《志の田そば》

〔文・写真 ☆ 江戸ソバリエ北京プロジェクト ほしひかる