第630話 やさしさの精神病理

      2020/05/27  

わが良き友よ♪

☆やさしさの精神病理
若いころ仕事で聖路加病院を訪れていた。私はその病院で各医師とお会いしていたが、その中のお一人に大平健という精神科部長の医師がおられた。
大平先生の上司は、名著『甘えの構造』の著者の土居健郎先生だった。
われわれソバリエは和辻哲郎の『いきの構造』が気になるところであるが、日本の甘え体質を分析した『甘えの構造』も日本人としては重要なテーマであった。土居先生は、廊下で二度ほどお姿を見かけたので、黙礼しながら「あの方が土居先生か」と思ったものであるが、それからすぐに先生は定年退職されたため本格的にご挨拶ができなかったのが残念である。
1995年、大平先生は『やさしさの精神病理』(岩波新書)を上梓された。ちょうど阪神淡路大震災やオーム事件が起きた年だった。
先生とは時々お会いしていたから、その著書についてもお話したことがあったが、「精神病理」という堅い題名のとおり従来にない〝やさしさ〟を追究されていた。だがその割には文章のタッチは物語風のエッセイであったため読みやすかった。しかし中身は深く、なかでもポケベルの話には考えさらせられたものであった。
当時はポケベル全盛の後期であった。ポケベルを知らない人のために説明しなければならないところだが、その前にこれまでの社会状況を述べた方がいいと思う。

☆1975年の変換
先ず、少し遡った1970年代の初めごろ映画は東映の義理人情任侠シリーズが幕を閉じて一時代が終わっていた。
 1975年ごろは、電話のダイヤルがプッシュホンに変わり、社会は大きな変化が訪れようとしていた。世間ではそのころから〝やさしさ〟ということが人間関係上のキーワードになっていた。ただ、これまでの〝やさしさ〟は「相手の気持を察し、慰め共感しようとする利他主義」であったはずであるが、最近のそれはちょっと違っていた。
そこで大人たち、とくに男たちは「やさしい、やさしい、ってやたらと口にするけど、お前たちのやさしさってどういうことなんだ」という戸惑いと疑問の声もあがっており、それに応えるために書かれた親切な本もたくさん出ていたが、遅ればせながら大平先生の本もそうしたものの一つかもしれなかった。
産業界では70年代の後半に日本初のパーソナルコンピュータが登場した。最初はわずか8ビット。売り出したのは、椎名社長率いるソード社。ソフトバンクの孫さんとともにベンチャービジネスの寵児といわれた人であった。ソードという社名はソフト&ハードを縮めた名前だった。ソフトバンクもそうであるが、当時は「ソフト」という言葉に新しさと未来があった。今はスマホからの「アプリ」という言葉が広く使われているが、「ソフト」登場時のような輝きはないような気がする。孫さんは佐賀県の鳥栖市のご出身で、当時も今もニコニコ顔の頭脳派・戦略派だ。私がお会いしたころは野村証券の副社長をスカウトして社長に据えられているぐらいなので、初めから近寄りがたいところがあった。今はもちろん世界の「孫正義」である。椎名さんの方はやんちゃ坊主のような人であったが、先を進みすぎて頓挫、ソードは東芝のパソコン部門になった。
80年代、映画はさらに激しくなり「ヤラレたら、ヤリ返せ」という『仁義なき戦い』シリーズが大ヒットし、またパーソナルコンピュータはやがて「パソコン」と呼ばれるようになってパソコン通信なるものが始まった。それはハンドルネームというものがあって、今のように本名ではなく匿名でつながっていた。
富士通でその事業を立ち上げたのは中村さんという人だった。後にniftyの専務となられたが、「面白いことをやろうよ」ということでやり始めたとおっしゃっていた。当時の通信はまだ手作りの温もり感があって、プロバイター的立場であるはずの中村さんから直接メールがきたりしていた。
 80年代の私はといえば、社内ベンチャーとして医療用のソフト会社を立ち上げ、かなり注目されていた。
だから、皆さんたちとはベンチャービジネス交流会でお会いしていた。
後日談であるが、10年ぐらい前にその中村さんと後楽園駅でバッタリお会いした。90歳を越したおっしゃっていたが、相変わらずお元気で、世界に面白い人がいると聞けば仲間と出かけて行って、拍手をする会をやっているという。ほんとうにおもしろい方だ。
そうそう、ヤクザの健さんであるが、東映の前社長にかわいがられてスターになっただけに、新社長の時代になると外され、冷遇されていた。窓際の健さんは悩んだ末に独立した。新社長は映画界のドンだった。失敗すれば映画界にはいられない。一か八かの賭けであった。そうして出会ったのが『八甲田山』や『幸せの黄色いハンカチ』であった。映画は大ヒットした。「義理人情の健さん」がもっていた誠実さが見事に「やさしさの健さん」として活かされ、大スターになった。
当時、私は本社に戻って広報の仕事に就いていた。当社の社長と東映の社長は実業界の仲間だったため、職務上から東映感謝祭にも顔を出し、私は遠くから映画界を眺めることができ、勉強になった。

☆ポケベルの遺伝子
さて、ポケットベルがどういうものか・・・。
Aさんがポケベルというものを持っているとする。そのAさんの外出中、BさんがAさんに用があるとき、BさんはAさんのポケベルを鳴らす。するとAさんはBさんに「ポケベルが鳴ったけど、何か用?」と公衆電話から電話する。というようなツールであった。
そこで、大平先生の著書の話になる。
執筆して本になる時間軸を考えると、おそらく90年代初めごろの診療記録からだろう。診療上の話は省くとして、ある若いご主人が働いている奥さんにポケベルを持ってもらった。奥さんは「主人は私のことを心配してくれている。やさしい人だ」と思った。しかしご主人はポケベルを鳴らしたことはない。「ポケベルを鳴らしたら、妻の仕事を邪魔することになる」というやさしさからだという。また妻もそういう夫をやさしいと思っている。それにたとえ鳴ったとしても手が離せないときもある。電話をしたいときにすればいいから、要するにポケベルを持っているだけで夫婦の〝絆〟になる、というわけである。
本には他に、挨拶しないやさしさとか、深入りしないやさしさとか、傷つけないやさしさなどの例がたくさん示されていた。
いずれも、これまでは相手と一緒になりたい気持がやさしさであったが、今は傷つかないように予防線を張ることがやさしさだという。
ややこしい時代になったもんだ! と思った。
少なからず先生もそう思ったのか、こんなことを述べられていた。
〝絆〟はキズナと読むが、実はホダシとも読む。
キズナは親子・夫婦などのように情愛のこもった断ちがたい関係であるが、ホダシは自由を束縛する関係の意である。キズナとホダシはセットであるから、ホダシなしのキズナはありえない、らしい。
そこで思うに、いま〝絆〟をホダシと読める人はほとんどいない。「情にほだされて・・・」という台詞も死語同然になった。それは当時の人々が、やさしさのキズナを求めたから、束縛などという重い気分の伴うホズナを切り捨て、〝絆〟はキズナとだけ理解するようになったのではないだろうか。
ところで、先にポケベルは全盛後期だといったが、職場ではパソコン通信がかなり高度になっていた。ただ、ポケベルの遠慮がちのやさしさという遺伝子はこのパソコン通信に引き継がれていたところがあった。
ところが、そのパソコン通信もインターネットが普及する2000年ごろには終焉を迎え、現在の本名を使用する電子メールに進展していった。当然本名であるから一時は混乱と摩擦が生じたが、紆余曲折を経て、今は暗黙のやさしいマナーというものが存在するようになった。これもポケペルの遺伝子だろう。
たとえば、メールの長文は失礼だ、とか。一斉メールには返信しなくていい、とか。返信は1~2回まで。返信したいときに返信すればいい。あるいは「返事をください」となければ返信しなくていい。それでもメールの受信は拒んでいないから、絆(キズナ)は保っているというわけで、遠慮と自由さは保持されたのである。それはそれで個別の対策としてはベターなマナーだった。
しかし驚いたのは電話との関係である。いきなり電話をするのは失礼だから、その前にメールで電話していいかどうか訊くべきだとか、「そんなことでわざわざ電話をしてくるな」と言ったり、ドラマなどでは「私、電話 弱い派なんです」とシャーシャーと言う場面が出てくるような風潮になってきた。まるでやさしさの突然変異のようであった。
さらにはオレオレ詐欺の防止という別の要因から「電話に出るな」ということが加わった。個別の対策としてこれも止むを得ないことであるが、総体から見ると、やさしさがねじれて人間どうしの生の触れ合いを拒みはじめたのである。
そして、やさしい時代であるはずなのに、イジメ・セクハラ・パワハラ・DVなどが頻発するようになった。

☆悪魔の単純化
いつの時代も、われわれは時代の犠牲者を出してはならないはずである。
かつての戦争・肺病、近代では公害・交通事故、そして現在進行形の原発事故・自然災害・COVID禍、それにイジメ・セクハラ・パワハラ・DVの被害に、オレオレ詐欺・フェイクニュース・・・。
自然災害・COVID禍の防災・防衛についてここで述べるには頁が足りないが、あとのものはだいたてい自動車・原発・ITなどの産業被害である。
そのうちのITとは〝つなぐ=監視〟産業である。かつて大平先生は〝絆〟はキズナとホダシの両面があることを指摘したのに、われわれは片面のキズナだけを求めた。
そればかりではない。われわれは「空気を読む」ことで同調することと、それに対して「水を注す」ことで冷静になるという両面の知恵をもっていたのに、このころから片面の「空気を読む」ことだけが日本の特質のように語られるようになった。それからまだある。日本人は公的な意見の「輿論:ヨロン」と情緒的な声の「世論:セロン」の両面を使い分けていたが、いつのまにか漢字は「世論」と書いて読みは「ヨロン」と一本化してしまった。
理由は簡単である。ITとともにマニュアル化が浸透し、「易しさ」「分かりやすさ」を求めてきたためである。
本当は「優しさ」と「易しさ」は意味がちがう。それを「易しさ」「分かりやすさ」運動から漢字を使わなくなってきた。そのため「やさしさ」が都合よく使われるようになった。それから「分りやすさ」とは本当は分別ではきる、判断できることであるが、いつのまにか「単純化」することが、分かりやすさになったのである。そのため、「言い切る」ことが分かり易いと思われ、反対者に対して偏見、差別感情が生まれ、そこからイジメ・セクハラ・パワハラ・DV社会が育っていった。まぎれもないIT産業被害であるが、その被害は常に弱者があびる。この論理を活用したのが小泉政治である。単純に賛成か反対かだけを迫り、反対派を抵抗勢力として差別した。庶民は「分かり易い」と喝采したが、心ある評論家は「悪魔の単純化」と評した。
さてさて、われわれは戦争、交通事故、原発事故・自然災害・COVID禍、イジメ・セクハラ・パワハラ・DV・オレオレ詐欺・フェイクニュース・・・の、ほとんどを解決できていない。なぜだろう?

☆わが良き友よ
プラグマティズムの思想家ジョン・デューイは「行き詰まりは、目的より手段を優先させるところからくる」と言う。
デューイ式でみると、人間の幸せが目的であり、交通・原発・IT・観光産業は手段であるということになる。であるのに、社会人はそれら産業に身を呈し、かれらはその領域を守りまた発展させようとする。また政治もそのためになされる。だが、このように見てみれば、日本は1975年以降から変わった。その1975年といえば、当時の日本食が人間にとってベストモデルであると世界から注視されている。
当時の食事は当時の社会の産物である。ならば、1975年以前の日本社会はベストであるという見方ができる。
とすれば、人間から自由を奪い、そして人間性を喪失させた1975年以降からのIT社会とは何だったのか?ということになる。もちろん正の側面は語りつくせないほど大きい。しかし時には負の側面も凝視しなければならないだろう。
そういえば、75年ごろ「わが良き友よ♪」をよく歌っていた。その「良き友」とは、まぎれもなく心の濃厚接触ができたアナログのことだった!
以上は、あくまで個人的体験による個人的な感想である。

いま地球規模のCOVID禍である。疫病は人間の命や自由を奪う。
かつて、日本では平安末期の疫病流行の後に貴族政治から武家政治への革命を起こすことができた。
西洋では中世末期の疫病流行の後に人間讃歌のルネッサンス革命を起こすことができた。
おそらく鎌倉人やルネッサンス人は、立ち止まって負の側面を凝視したにちがいない。その結果、人間の命や自由の尊さを改めて認識し、軌道修正することができたのかもしれない。そこに希望がある。

(未完)

〔文・絵 ☆ エッセイスト ほしひかる