第262話 ミレー〔種を播く人〕

     

【挿絵☆ほし】

~ 大地の人 ~

ミレー(1814~75)の生涯を覘いてみると、彼は19歳で故郷のノルマンディ地方のグリュシー村を出て、シェルブールとパリで絵を学んでいる。
しかし、田舎者のミレーにとって都会は肌に合わなかった、そのため、苦難の10年を過ごしている。
そのころのフランスは王制と共和制が交互に樹立され、世情は激しく揺れ動いていた。マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』を発表したのもこのころだ。一方のわが日本はといえば、1853年にペリーが来航してテンヤワンヤの大騒ぎ、アメリカは南北戦争(1861-65)後に奴隷を解放した。
世界の潮流は〝過去〟を脱し、〝近代〟へと大きく舵を取ろうとしていた。もはや中世の貴族は段々と過去の人となり、ブルジョアとプロレタリアートが台頭し、ヨーロッパも、フランスも、パリも変わろうとしていた。
ミレーもまた変化を求めてパリの郊外60kmのバルビゾン村に移った。35歳(1849年)のときだった。それからの彼は水を得た魚だった。なぜ「水を得た」かというと、「創造力」は過去と現在が交差するところから誕生するといわれるが、ミレーがまさにそうであった。バルビゾン村の光景が少年のころ過ごしたグリュシー村の記憶を蘇らせたのである。そして、そこから一気に創作意欲がわいてきた。
最初に描いた大作が〔種を播く人〕(1850年)だった。続く〔落穂拾い〕(1857年)、〔晩鐘〕(1857~59年) なども、故郷で農作業を手伝っていた少年時代の追想から生まれた。
〔種を播く人〕はグリュシー村の父が蕎麦の種をまく姿を思い浮かべ、〔落穂拾い〕は祖母と母の姿を描いた。〔晩鐘〕は祈る祖母の習慣がイメージであった。
ただし、妻ポーリーヌを描いた例からみても、人物描写に優れていたにもかかわらず、ミレーは農民の顔をはっきり描かなかった。それは父や祖母や母その人を写すのではなく、象徴として描いたからであった。それが農民画家ミレーの画法だった。
〔種を播く人〕を観ていると、大きく腕をふって大地に種を播く若い農夫の恰好からは、「食材作りはオレに任せろ!」という声が聞こえてくるようである。
この画もそうであるが、ミレーはだいたい画面の2/3を大地で塗りつぶしている。それゆえミレーの絵はいずれも大地の匂いがする。これが「大地主義」とでもいうのだろうか。こうした考えをもってミレーは「農民として生き、農民として死ぬ」と宣言し、農民画400点以上を描いた。
そんなミレーである。近代化と開発の手がフォンテーヌブローの森にまで及ぼうとするのを見て憤慨しないわけはない。1865年、彼は大親友のルソーとともに、ナポレオン三世に直訴状を書いた。お蔭で森の伐採はストップがかかった。
その日から、自然のままのフォーテーヌの森は今に続く。まさに史上初の自然保護運動であった。
ゆえに、ミレーは今も輝いているのである♪

〔エッセイスト ☆ ほしひかる