第965話 汁物こそ和食の命
2026/01/31
たまたまですが、日本料理の会、江戸前料理の会、精進料理の会が連続してありました。席に着いた私は、頂きながら和食はやはり汁物が主役だなという思いを強くもちました。
一、「日本料理 しち十二候」
九品の料理が配膳され、そのうち汁物はお椀と温物でした。

二、「江戸前 芝浜」
十品の料理が配膳され、そのうち汁物はお椀二、ねぎま、茶漬けの四品でした。

三、「尼寺三光院 竹之御所流精進料理」
十一品が配膳され、そのうち汁物は茶碗蒸し、箸洗い、粟麩と、最初のお薄と、
締めの啜り茶の五品でした。

もちろん各会ともお酒がありましたが、これは汁の数に入れておりません。
また「しち十二候」と「芝浜」でお茶も出ましたが、御献立に入っていませんでしたので、汁物の数に入れていません。一方の三光院では、御献立に最中とお薄、啜り茶が入っていましたので、汁の数に入れました。
それから「江戸前 芝浜」の汁物は鰹出汁、京都系の三光院は昆布出汁でした。
そういう条件下ではありますが、和食では料理全体の三、四割が汁物だということがいえます。
ちなみに、上の三つの会の間にホテルオークラで、ある会が開催されました。
この時のMENUはコーヒーを入れて6品、そのうち汁物はスープとコーヒーの2品でした。このスープとコーヒーというのは、西洋料理の一般的な形でしょうが、この洋食は別として、日本の料理にかぎっていえば、汁物は和食の基本ということがいえると思います。そこから、「ご飯と味噌汁」と同様に、「蕎麦切とつゆ」は夫婦のような関係という見方ができるでしょう。
ところで、度々申し上げていますように、世界の麺は三種に分類されます。
【汁なし麺】【汁あり麺】【付け汁麺】です。
うち、麺といえば、主流は【汁あり麺】と【付け汁麺】でしょう。とくにアジアの麺は汁と、器=丼+箸が基本です。
それなのに、江戸の蕎麦職人はつゆと麺を別々にしました。
なぜでしょう。
そんな疑問をもちましたので、日本の料理史を振り返ってみますと、そもそも和食というものは、武家時代になってから始まったということがいえます。
なぜそういえるのかといいますと、いつものように前時代と比較して、あるもの、ないものを見てみますと、平安時代までは乾き物を切ってただ並べているだけでとても料理とはいえない物です。それが武家時代になりますと、煮る、蒸すなどのいわゆる料理した物が並びます。
これは、栄西(『喫茶養生』)、道元(『典座教訓』『赴粥飯法』)に始まり、続く圓爾が、本格的に粉物、羹を持ち帰ったことによって始まりました。いずれも南宋留学での刺激が発端です。
言い換えますと、日本人は羹=熱物=具を汁で煮た物によって、汁の料理を知ったのです。以来、汁物が日本料理の基本になりました。
こうして、私たちは汁物を美味しく頂いて、まるで湯舟に浸かっているような幸福感を味わっています。
ところで、江戸の蕎麦=ざる蕎麦はなぜ「蕎麦つゆと蕎麦」は分かれて「付け汁麺」になったのでしょうか。
これはソバリエとして最重要の案件ですが、また別の機会に述べさせていただきたいと思います。
追記、それにしても締めの卵かけご飯(しち十二候)、茶漬けのご飯(芝浜)、啜り茶(三光院)が美味しかったこと。(卵は秩父産で1個800円とか・・・)
参考:第963話 尼門跡 竹之御所流 精進料理
江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる