第286話 対馬蕎麦 ⇒ 江戸蕎麦

     

挿絵 ほし

「風評被害」という言葉がある。
最初は誰かが勝手なイメージで「たぶん、ああだろう」と憶測で言っていたことが、人の口にのぼるにつれていつの間にか「きっとそうだ」に変換してしまい、そのことによってある人たちが被害をうけることだろう。

被害とまではいかなくても、誰が言ったかは不明ながら、それでいてどことなく真実のように思わせる台詞というのは、よく耳にする。
たとえば、「昔から、西はうどん、東は蕎麦って言いますでしょ」とおっしゃっる方がおられるが、それなんかがそうである。
「言われれば、そんな気がしないでもないが・・・」と思いつつも、一方では何か納得できないような気がしないでもない。
これもおそらく最初は「だろう」程度だったのが、だんだん「そうだ」と断定されるようになったのだろう、との疑念が長い間、燻っていった。
それが最近、謎でも解けたかのように胸がスッとしたことがある。

過日、巣鴨の「菊谷」さんで「対馬在来が手に入るので、来ませんか」とのお誘いがあった。そこで、江戸ソバリエの清さん佳さんと、ご一緒することになった。
このときの「対馬在来」の食感は「ほの甘い小説 ― いきの構造」の中に挿入した。
東京で「対馬在来」を口にするのは今日で2度目だったが、1度目と今日はちがっていた。そこがまたお蕎麦の不思議なところであるが、お二人の美女とお別れしてから、もう一度「同じ対馬在来でも打つ人によってはまるでちがうナ」とか、「それにしても、《江戸蕎麦》はやっぱり旨いナ」などと考えながら帰途についていたら、「そうだ!」と思い出したことがある。
対馬の蕎麦を食べたのは、実は3度目だったのである。
それは 50年も昔のことだった。友人たちと玄界灘を渡って対馬へ行ったとき、民宿で私たちは対馬蕎麦を食べさせてもらったのである。そのころの私は蕎麦のソの字も知らないころだったから、認識の外にあったのだろう。
記憶をたどれば、そのとき食べたものは、《けんちん蕎麦》風の「太めで、あまり長くない蕎麦に、椎茸、蒟蒻、豆腐」などが入っていたような気がする。そして「ここら辺では、昔からこうやって食べている」と言われたものだ。その「ここら辺」というのは何処かと尋ねたら「対馬、壱岐、五島列島だろう」みたいな返答をもらったと思う。ただし、その対馬の出汁が何だったかまでは、なかなか思い出せない。匂いとか味からすると、鰹とかではなかったような気がする。
思い出しついてに調べてみると、『聞き書 長崎の食事』という本に対馬の蕎麦の出汁は鶏でとることが紹介してあった。
実は、この「鶏」ということで、「もしかしたら!」と想うことがある。
それは「日本橋そばの会」の皆さんと、北京の北方にある張三営村へ中国のお蕎麦を食べに行ったときだった。そのお蕎麦「刀墢麺」の出汁が鶏だったのである。
「鶏、それが何だ?」と問われるかもしれないが、われわれ日本人は「トリ肉」を食べるとき「トリ」とおおざっぱに言ってしまうから、昔から「鶏」を食べていたと取り違えている人が多い。けれど、それこそ「鶏」さんにとっては迷惑な話であって、昔の日本人の食用トリといえば、山鳥、水鳥のことであった。つまり、時を告げてくれる鶏は「神鶏」ということで食べていなかったのである。
ただし例外として、古くは中国大陸、江戸時代にはオランダ人と盛んな通商をしていた長崎港辺りの住民や港を管轄していた佐賀鍋島家の武士たちは昔から先進的で、鶏肉も早くから食べていた。それが博多へ伝わって《水炊き》となり、明治になって鶏食はさらに東進していくのである。
この長崎から佐賀城下町や福岡を通って北九州先端の小倉へ行く道を「長崎街道」というが、近年はこの街道を「シュガー・ロード」と呼ぶらしい。つまり砂糖がここを通って本州へ伝わったというわけである。だが、それは「コケコッコウ・ロード」でもあったわけである。
そんなことを考えると、鶏出汁の蕎麦というのは、中国から蕎麦麺が伝来したときの形ではないかと想像するのであるが、ただし当時は出汁という概念はまだなかっただろうから、正確にいえば「鶏を使った汁」といったところかと思う。
さらにいえば対馬蕎麦の具になっている蒟蒻豆腐は、中国唐の時代に始まり、奈良時代に日本へ渡来したものである。
併せて、『聞き書 佐賀の食事』も開いたところ、佐賀・長崎ともに昔の肥前の国では《そばのしゅっだご》《そばねったくい》《そばぞうし》などを食していたことが紹介してあった。
ただ、佐賀出身の私だけれど、これらのお蕎麦を食べたことがない。しかしながら、その名を聞いただけでどんな食べ物かは判る。「しゅっ」とは汁のこと、「だご」とは団子または団子状のこと、「ねったくい」は練り込むこと、「ぞうし」は雑炊、である。だから、蕎麦麺や蕎麦掻、蕎麦団子にして食べたということである。
ここで肝要な点は、いつから始まったかは不明であるものの、肥前では昔から蕎麦を食べていた証のひとつが、「しゅっ」「だご」などの肥前の言葉での表現であろう。

というわけで、もうお分かりであろう。真実は「日本蕎麦は対馬や肥前で芽が出て、その花は江戸深川で咲いた」ということになる。
深川は《ざる蕎麦》の発祥の地の一つ。江戸人が水切れを考えて笊を食器として使うことを考え出したころが「江戸蕎麦」の盛事の始まりだと、私はみている。

それを、「今は、西はうどん、東は蕎麦」とするならともかく、「昔から・・・・・・」と浅く片づけてしまっては、お蕎麦やうどんの長い歴史に対して失礼だろう。

参考:『聞き書 長崎の食事』(農文協)、『聞き書 佐賀の食事』(農文協)、江後迪子『長崎奉行のお献立』(吉川弘文館)、

〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる