第77話 江戸蕎麦めぐり②

     

更 科 伝 説

 老舗の蕎麦屋「更科」さんには、ずいぶんお世話になっている。とくに「総本家更科堀井」さんには江戸ソバリエのシンポジウムにご登板願ったり、度々の取材に応じていただき、また「神田錦町更科」さんには当方の認定講座の講師をお願いしたりと長いお付き合いをしていただいている。もちろん、その間いろいろと「更科」の歴史を聞かせていただいたが、蕎麦好きにとってはこんな贅沢なことはないと思う。

 さて、この度は「錦町更科」のご店主に堀井家の菩提寺大松寺をご紹介してもらい、日頃から仲好くさせていただいている江戸ソバリエの松本さんと、谷岡さんとご一緒に堀井家の過去帳を拝見する機会を得て、さらには小林さんに千葉保科家の陣屋跡をご案内してもらったので、そのとき妄想したことを勝手に描いてみたいと思う。

 

☆保科正率と布屋太兵衛の物語

 徳川時代の幕閣の一人に保科正之(1611~72)という人物がいた。正之は会津藩の初代藩主であり、3代将軍家光の異母弟でもあった。

 この保科氏というのは、元は信州保科村、現在の長野市の出であるという。それが高遠氏の代官として活躍するようになり、その高遠氏が天文14年に武田氏に降服すると保科氏は武田氏の被官となり、そのころの当主保科正俊は武田24将の一人と呼ばれるほどに活躍するようになった。

 しかし、その武田氏も滅び、そして本能寺の変が勃発すると信州各地は諸氏確執の舞台となり、正俊の子→保科正直は信濃経営政策を推進する徳川家康に帰属して高遠城主となった。天正10年のことである。そして家康の関東入り後も引き続き高遠は正直に与えられたが、正直の子→保科正光には子がなかったため将軍秀忠の子・正之を保科家に迎え入れることにした。

 将軍の異母弟にあたる正之は、長じて家光に優遇されて幕閣となった。そのため、保科家は正直の三男正貞に譲渡され、のち保科正貞上総飯野藩の初代藩主として移封された。

飯野陣屋跡

 その上総飯野藩の、保科家三代目兵部少輔正賢(1665~1714)は、江戸城奥詰(1690~92)に就いていた。時の将軍は綱吉であった。                                                                                 

 そのころ、信州から出て来た布屋の清助 (~1693)という者が「保科村出身の縁だ」とか何とか言って上総飯野藩保科家の麻布上屋敷に止宿し、信州布の行商をするようになった。 

 当時の地方の人間というのはほとんどが農民であった。彼らの着る物はボロを継接ぎしたり、または山野に自生する科、楮、楡、藤、葛、苧麻などの草木から取り出した繊維で糸を作り、自ら布に織り上げて普段着や作業着を作ったりしていたため、地方で衣料品を買う者などはめったにいなかった。しかし都会では需要があった。江戸の商人とか大工や鍛冶屋などの職人は、半纏、腹掛、股引を身に着けるようになっていたのである。

 そのため清助は、江戸に出て信州布を行商しようと考えた。当時は店というのはほとんど存在せず、だいたいが行商で物を売っていた。町人の家を回るのが「見世物商い」、武家屋敷を訪ねるのが「屋敷売り」と呼んでいた。また江戸では泰平の世が訪れた1624~52ごろから、木綿が庶民の衣料として定着しはじめていた。そこへ1673年、越後屋という商人が当時の常識を覆す「店前現銀無掛値」、つまり店で、正札どうりに現金で、売るという革新的商売を始めたのである。それが後の三越である。 

 以来、行商より店頭販売に人気が出るようになった。大伝馬町には木綿店が集中し、さらには正徳年間(1711年ごろから)から江戸町人たちの好みがはっきりしてきた。藍を基調として、茶や白や紅の細い筋を織りいれた木綿縞である。それは「唐桟」あるいは「桟留縞」と呼ばれて人気が出た。

 布屋2代目の平兵衛もそれらを採り入れ、かなりうまくいっていた。しかし行商という形式では売上がしれていた。だんだん大店に圧倒されていった。それでも7代目まで何とか麻、木綿などの普段着や作業着などの太物の行商を続けていた。それは先祖代々語り継がれてきた「信州の布は丈夫だ」という誇りを支えとしての商いだった。

 しかし、8代目の清右エ門は悩んでいた。こんな細々とした商売を続けていても埒がいかない、と。

 そんなある日、清右エ門は保科家の一隅で蕎麦を打っていた。布屋の者は昔から蕎麦打ちを得意とし、時折保科屋敷で打つことがあったのである。今日はお屋敷で茶会が催されるとかで、その後段に蕎麦を振る舞いたいというお殿様のご意向であると、担当の者から聞いた。

 「保科のお殿様とわが布屋は100年来のお付き合いをさせていただいている」とは数年前に亡くなった父の口癖であったが、わざわざ言われなくてもわが布屋が保科家にご恩があることは十分承知していた。そうして清右エ門の悩みもそこにあった。信州保科村のご縁でお世話になっているかぎり、信州布の商いを続けなければならない。「しかし、このまま行商を続けていてもなあ」。清右エ門は何とかして店を持ちたいと思っていたのであった。

 翌日、清右エ門は保科の殿様に呼び出されて、「昨日の蕎麦は、たいそう美味であったと客が気に入ってくれた」とのお褒めの言葉を頂いた。殿様というのは、飯野藩7代藩主保科越前守正率のことであった。長いお付き合いのせいで直接言葉を交わすこともあったが、お殿様から次に言われたことが、「信州蕎麦の店をもったらどうか」ということであった。

 清右エ門は思わず「それだ!」と膝を叩いた。先祖代々引き継がれてきた信州の誇りをもち続けるなら、何も布屋でなくていい。信州更級の蕎麦は江戸で評判がいい。なら、信州更級の蕎麦屋でもいいのではないか。保科のお殿様だってそう申されている。

 それから数ケ月して、布屋8代目清右エ門は麻布永坂の三田稲荷の近くに、信州更科蕎麦処「布屋太兵衛」の看板を掲げた。1789年のことであった。その折に「更級」とせずに「保科」の「科」を頂いて「更科」とするお許しをいただいた。店は、すぐに「保科のお殿さまのお墨付き」という評判が立ち、順調な船出となった。

 【麻布永坂「更科」発祥の地

 

 それから2年後、恩人保科正率は大坂へ赴任することになった。

 そもそもが大坂城の城主というのは、徳川将軍家自身ということになっていた。しかし現実には譜代大名から選ばれる大坂城代がこれを預かり、さらには譜代大名からなる2名の大坂定番(京橋口定番・玉造口定番)と、大番4名と加番、目付が警備を担当していた。

 保科家も、1648年に飯野藩初代藩主保科弾正忠正貞が玉造口定番に就いてから、大坂定番の役を預かることになっていたのである。

 お殿様の出立の日・・・・・・、「今日の繁昌も、保科のお殿さまのお蔭」と布屋8代目清右エ門改め初代布屋太兵衛は、恩ある殿様を見送るために東海道戸塚宿ぐらいまではついて行った・・・・・・、のかもしれない。

  (なお、布屋は明治以降堀井姓を名乗ることになった。)

参考:江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)、『大松寺史』、『藩史大辞典第2巻』(雄山閣)、松岡利郎著『大坂城の歴史と構造』(名著出版)、鷹司綸子著『服装文化史』(朝倉書店)、丸山伸彦編著『江戸のきものと衣生活』(小学館)、笠間良彦著画『大江戸復元図』(遊子舘)、

    〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる