第338話 旧邸に戯る古楽の音

     

【薩摩琵琶 ☆ 川嶋信子さん】

雪の降る日、地下鉄の駅を下りると、コンビニがあった。辺りは小さなマンションが並んでいる。向こうからスマホを操作しながら歩いて来る人がいる。ぶつからないようにと避けながら、坂を上り、目印の所を曲がって暫く行くと、島薗邸が見えた。昭和7年建造の登録有形文化財だ。
雪で電車が乱れていたためとはいえ、遅刻の身ゆえに、遠慮しながら重い戸をそっと開けると、もう薩摩琵琶の音が流れてくる。今宵は川嶋信子さんの琵琶演奏会である。
これまでも、彼女は旧安田楠雄邸(大正8年、保護資産)、求道会館(大正4年、東京都指定有形文化財)、六義薗(元禄期、国指定名勝)などで演奏会を行ってきた。
八王子の蕎麦屋「車屋」の店主小川さんは、美味しい料理に合う建物を追及した結果、古民家で営むことにしたというが、川嶋さんを見ていると、和楽も同じことがいえるのだろうと思ったりする。

私が、琵琶に関心をもったのはずいぶん前だ。花園神社で「怪談 耳なし芳一」を聞いてからだった。演奏者は芳一に倣って俄か盲目になり、そのうえ闇の中の蝋燭の灯に囲まれて琵琶を奏でた。凄味のある舞台だった。それもそのはず、奏者の本職は眼科医、琵琶は半プロだという。眼科医・・・、そう、盲目者の心を理解するために始めたというから、気持の入っている演奏と演出だった。
琵琶は「平家」を物語るようになってから流行ったというが、『平家物語』の作者は不明とされているものの、一部では木曾義仲のブレーンで、後に親鸞の弟子となった西仏房覚明の作だとも伝えられている。
その覚明という僧は、挽き臼を近江や信州にもたらした僧だとも蕎麦の世界ではいわれている。
ソバリエにとっては、聞き捨てならぬ話であるから、当ブログでも度々触れてきた。が、ともあれ挽き臼も琵琶も僧を介しているというところが、歴史的には興味深い点である。
そんなことから、ある会で知り合った川嶋さんに、江戸ソバリエのシンポジュームで謡「蕎麦」の作曲と演奏をお願いしてことがあった。川嶋さんとはそんなお付合である。

今夜の曲は、『枕草子』に材を求めた「春はあけぼの」、「冬はつとめて」。 幸若舞の「敦盛」から「夢幻」。 歌謡曲の「蘇州夜曲」。 そして童話の「砂漠の街とサフラン酒」、「赤い花白い花」である。
いずれも、古か、少し前の時代の歌詞である。
とくに「春」や「冬」を聴いていると、『枕草子』の中の「春は曙、夏は夜、秋は夕暮、冬はつとめて」を思い出し、日本古来の情景と心情は何と美しいことかとしみじみする。それ故に、古曲の音は古い建物によく合うのだろう。
そもそも音楽というのは日常の喋り言葉をちょっと節をつけて鼻歌風に歌うところから始まった。だから、「a・b・c・・・」を話す人たちと、「い・ろ・は・・・」を喋る日本人の音楽は基本的にちがう。
それを思い知ったのは、私が一番好きな歌手サリナ・ジョーンズの歌う「I Love You」を聞いたときだった。この歌は日本人が作って、日本人が歌っている曲だというのに、まるでサリナ・ジョーンズの持歌のように上手いのである。
ジョーンズは一流のジャズシンガーではあるけれど、それより「洋楽」というのはやはり西洋人のものなんだ。逆に、「和楽」というのはやはり日本人の音楽なんだろうということを痛感したことがあった。
だから、日本人は和楽を捨てられない。

現代に包囲された私たちだが、旧邸に流れる古楽の音に戯る時間の中で、そんなことを思ったのは私だけではあるまい。
そして、ソバリエとしては、蕎麦を含めた和食も、こういう贅沢が演出できればさらに深みを増してくるだろうと、自分に自分の宿題を思い付いたりした。

参考:西仏房 → https://fv1.jp/chomei_blog/?p=2838

サリナジョーンズ「I Love You」https://www.youtube.com/watch?v=RTKphmkBkTQ

〔エッセイスト ☆ ほしひかる