第92話「天城越え♪」

     

 

 「葉がつやつやしい青の山葵を、背負い枠一ぱいに負って、山から裸馬を走らせて来る彼女は、緑の朝風だった。」

 川端康成の小説『温泉宿』の一節である。若くて野性的な女(お滝)を「緑の朝風」と表現し、山葵の清冽さと重ね合わせたのはさすがだと思う。

 この小説の舞台になっているのは伊豆の城ケ島であるが、天城連山付近は、太平洋からの湿った風が吹き寄せるため、国内有数の多雨地帯となっている。その雨を地元では「天城の私雨」と言うらしい。多量の雨は安山岩という火山岩の層に濾過されて、年間を通して十二~十六度という温度差のない水となって湧き出して、伊豆特有の清廉な風土を作り上げている。 

 そのため、伊豆では昔から、この良質な湧水と傾斜地を利用して「日本一」と言われるほど品質のいい山葵を産している。

 その伊豆式の栽培法を指導されているのが、日本でただ一人の「わさびマイスター」【(財)日本特産農産物協会認定】鈴木丑三さんである。

 お訪ねすると、すぐに持越地区の山葵田に連れて行ってもらった。

 山懐に抱かれて天まで続く棚田は感動的な光景である。さっそくトロッコに乗せてもらって登りながら、青々と広がる山葵田の中でお話をうかがった。

 「山葵栽培は静岡の安倍川上流が発祥の地、慶長年間に始められた。伊豆も十八世紀後半には栽培を行っている。山葵には青茎の美生系と赤茎の真妻系があるが、天城は青美生の山葵が多い」と言いながら、身軽に沢の中を歩いて、何本か引き抜き、清流で泥を落とす。すると、一束には大・中・小様々の大きさの根が付いている。山葵生産者は、それを選り分け、大きい山葵は料亭や寿司屋さんへ、中程度の物は蕎麦屋さんへ、小さいのは漬物用にするという。

 たしかに、蕎麦の薬味に本山葵は欠かせない。「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね」と、蕎麦好きの夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で蕎麦の食べ方を伝授している。

 鈴木さんも「本物志向で、近ごろ蕎麦屋さんからの注文が増えている」とおっしゃる。

 なら、ソバリエとして、山葵の正しい扱い方をうかがっておかなければなるまい。

 Q.山葵を買うときの選び方は? 

 A.茎数が多い方がよい。山葵は成長するにしたがって、古い茎を落とし、新しい茎が生えてくる。食べごろは、早くて一年、長くて二年もの、平均すれば十四ケ月ぐらいのものがいい。

 Q.山葵を下すときは、根の上部から、それとも根の下部から?

 A.山葵は根の上部の方へと成長するから、茎に近い部分が新しい組織で、風味豊か。だから、根の上部、茎のある方から下した方がよい。

 Q.山葵の美味しい時季は?

 A.山葵は真夏ごろから寒い時期には成長が止まります。したがって秋~冬に収穫したものが辛味成分は多い。

 Q.下ろし器具は何がいいですか?

 A.きめ細かな鮫皮の下しで「の」の字に下すと粘りが出る。

  話を聞いているだけで、山葵の緑の朝風のような香気が漂ってくる。山葵は日本の薬味文化の誇りであろう。

  この拙文を書き終わったころ、松本清張原作の『天城越え』をNHK BSテレビが放映した。和田勉の渋い演出が印象的な作品であったが、石川さゆりさんが熱唱する「天城越え」ともよくマッチするドラマだと思った。

 天城とはそういうサビの効いた土地なのだと思いながら、また下手な絵を描いてしまった。

 【浄蓮の滝 ほしひかる絵】

 

参考:『静岡・山梨のうまい蕎麦83選』(幹書房)夏目漱石著『吾輩は猫である』(大倉書店)、川端康成著『温泉宿』(岩波文庫)、松本清張著『天城こえ』(光文社)、和田勉演出『天城越え』(NHK)、石川さゆり唄「天城越え」、

 [エッセイスト、江戸ソパリエ認定委員長 ☆ ほしひかる]