第102話 高嶺ルビー物語
蕎人伝⑩河口慧海と氏原暉男
☆河口慧海師が見た紅い花
明治32年5月中旬のことだった。日本の黄檗僧・河口慧海はネパール・ムスタン地方のムクティナートを経て、ツァランという寒村に足を踏み入れた。彼は仏典の原初形態をとどめているというチベット語訳の一切蔵経をどうしても入手したく、鎖国中のチベットに独りで潜入しようとしていた。そのために、この村に住むモンゴル出身のラマに、チベット仏教を学んだり、登山の訓練などの準備に約十ヶ月を費やすつもりであった。
この村は、夏がくると四方の白雪皚々たる雪峰の間に麦畑が青々と広がり、その間に光沢ある薄桃色の蕎麦の花が今を盛りと咲き競うのであった。
寄宿していた村長の家の、仏間に閉じ籠って夕景までお経を読んでいた慧海は、あるとき颯と吹き来る風の香を馥ばしく感じた。「何かしらん」と思って窓を開けてみると、雪山から吹き下ろす風が静かに蕎麦の花の上に波を打ちつつ渡って来るではないか。そのうえに彼方此方には胡蝶の数々が翩々として花に戯れ空に舞い、雲雀はまたこの世の音楽師は我のみぞと言わんばかりに謡っていた。このとき慧海は33歳、厳しき求法僧とはいえ薄桃色の花の輝くような美しさに感動し、思わず一首詠んだのであった。
あやしさに かほる風上 眺むれば 花の波立つ 雪の山里 -慧海-
むろん、こののち慧海は世界の探検家が望んで成しえなかったチベットに入国して、ラサのセラ寺の入学を果たし、1年2ヶ月後に無事脱出したのであったが、このとき慧海は、紅く咲く蕎麦の花に魅せられた最初の日本人でもあったのである。
【ムクティナートに咲く紅い蕎麦☆ほしひかる絵】
☆氏原暉男先生の高嶺ルビー
時代は下って、昭和55年のことだった。かつて慧海が参詣に立ち寄ったムクティナート(標高:3800メートル)にやって来た人がいた。「山岳地帯の作物品種改良」の研究のために、ネパール農業省に招かれた信州大学名誉教授の氏原暉男先生であった。奇しくも、氏原先生はダウラリギリ山麓のカリガンダキ河から一キロメートルほど登った所で谷間一面を覆っている真紅の花を見た。それは蕎麦の花だった。先生は輝くような真紅の蕎麦の花にすっかり魅せられてしまった。そして「日本人にもこの紅い花を見せたいものだ」と思い、村長に「この蕎麦の種を日本に持ち帰り品種改良をしたい」と伝えたのであった。明治の人・慧海もそうであったが、氏原先生もまた発想のスケールが大きな方であった。
しかし、日本に持ち帰った種は栽培しても微かなピンク色になるだけだった。先生は再度ムクティナートに赴いて現地の気象条件を測定したり、播種の時期を検討したりして、共同開発会社のタカノ㈱とともに試験栽培を繰り返した。そしてついに平成2年に「高嶺ルビー」の名で農水省に新品種の登録申請を行い、平成5年に認可された。
それからというもの、信州(中川村、箕輪町、木曾町、茅野市)の山野には紅い花が広がり、中川村や茅野市では「紅そばサミット」が開催されるまでになった。
未知の国に行く前にあやしく美しい花に魅せられた慧海、日本での育種に情熱をかたむけられた氏原先生 ― この二人の冒険家の心をとらえた紅い花、それが高嶺ルビーである。
参考:「蕎人伝」第99、91、88、87、82、70、65、64、62話、河口慧海『チベット旅行記』『河口慧海日記』(講談社学術文庫)、氏原暉男『ソバを知り、ソバを生かす』 (柴田書店)、
〔「紅そばサミットin信州蓼科高原」県外委員 、江戸ソバリエ認定委員長☆ほしひかる〕