第103話 蕎麦屋の暖簾には変体仮名がよく似合う

     

 

 「蕎麦屋の暖簾、一体あれは何と書いてあって、どんな意味があるのか?」と尋ねられることがある。

 【蕎麦屋の暖簾】

 答を先に言えば、「きそば=生蕎麦」と書かれてある。江戸時代に「生蕎麦」「生粉打」「手打」という言葉が使われはじめているが、いずれも「上等の蕎麦。駄蕎麦ではない」という意味である。

 「機械打」のない時代に「手打」という言葉が使用されているのは不思議だなどと考えるのは、現代人の目であって、「手打」の〝手〟は、「手間」の〝手〟であり、現代のように機戒に対する手ではないから、ご注意願いたい。

 また、「」は「キ」であって、決して「生=ナマ」ではない。つまり「キ」という発音が重要であって、字義にはあまり意味がない。だから「起蕎麦」と書かれたり、「キ蕎麦」と書いた看板もあったりする。

 この「キ」という音には、「生一本」「生っ粋」というように、純粋、純真、一途という意味合があったというから、これもご注意願いたい。

 蕎麦屋が描かれている江戸時代の浮世絵などを見ると、漢字、平仮名、後に述べる変体仮名を自由に使っている。つまり「字」より「音」が重要だったのである。このように江戸時代は文字や字義より、言葉や音が先行していたことをまず頭に入れておいていただきたい。

  それが明治になって変わってきた。まず標準語を設けた。明治中期から東京山の手で使用されていた言葉を標準語としたのである。

 同様に、仮名も明治33年の「小学校令施行規則」によって、現在の平仮名が決まり、それ以外の平仮名文字を「変体仮名」と区別して呼ぶようになった。それまでは、たとえば「曾」「蘇」「楚」などを崩した字を「ソ」(ここでは各々の変体仮名を具体的に表記はできないけれど)として自由に使っていた。

 それが、たとえば「蕎麦」は平仮名で、「曾」→「そ」、「波」→「は」と書きなさいと、統一されたのである。

  ところが、あるときから、誰が始めたのか、蕎麦屋では「」を崩した仮名、「」を崩した仮名を暖簾にデザインした。それが冒頭のご質問の暖簾の字というわけである。

 話は変わるが、「暖簾」は現在では「のれん」と読んでいるが、「暖簾」という字が定着した室町時代は「のうれん」「なんれん」と読んでいたらしい。

 当初は無地だった暖簾も桃山時代あたりから図柄モノが作られるようになり、江戸時代になって現在のような形になった。とくに元禄・宝永のころから屋号暖簾が普及したらしい。となると、暖簾の役割のひとつに広告媒体としての使命があるが、このように統一した変体仮名で「生そば」と表記するようになったことは、結果的には蕎麦業界全体の統一イメージになっている。他業界には見られない珍しい現象ではないだろうか。

  ただ、蕎麦業界のように足並は揃ってないが、和食屋、あるいは伝統的な職業には、今も「変体仮名」や「平仮名+漢字」が使われたりして、雰囲気が醸し出されている。

  事業は新しいことに挑戦しなければならないが、一方では古いことは古いで大事にしていきたいと思う。

 参考:ほしひかる協力「シルシルミシル」(テレビ朝日2010.6.8放映)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕