<コンビ二創業戦記・別伝>「DCVS回想録」第18回
2017/01/24
<嗚呼!阪神大震災>(その1)
2011年(平成23年)3月11日・午後2時47分、<東日本大震災>が発生した。マグ二チュード9・0という日本の近代観測史上、最大規模の大地震と大津波である。更にはフクシマ原発事故を誘発する未曾有の複合大災害となって、2万人もの尊い人命の犠牲と、甚大な直接的被害をもたらし、現在もなお、その波及する影響は、未だ計り知ることが出来ない状況にある。まさに国難ともいうべき大災害である。
犠牲となられた方々、被災され、未だ避難しておられる方々に、衷心より鎮魂とお見舞いを申し上げると共に、、救援,復旧に携われた皆さまに心からの感謝を捧げたいと思う。
一年という長い暗中模索と焦燥の紆余曲折をへて、漸く復興への遠い道のりが、仄見えて来ようとしている。
一日も早く、フクシマ原発事故が完全に終息し、広範な被災地域が見事に復興される日の来ることを、真剣にご祈念申し上げたい。
実は私には、この東日本大震災の16年前、将に<阪神大震災>に遭遇し、震災現場で、復旧の初期段階に直接関わった生涯忘れえぬ体験がある。どうしてもここで、そのことに触れないわけにはいかないのである。
6434人もの方が尊い犠牲となられた阪神大震災が、突如発生したのは、忘れもしない1995年(平成6年)1月17日・午前5時46分のことであった。
その日私は出勤前で、埼玉県川口市の自宅に居た。
関東でもその時間に、かなりゆれたことを覚えている。直後にテレビでは、関西地方で地震が起きたことを速報したが、規模や被害の状況に付いては、まだ詳しく触れてはいなかったと思う。
出勤する電車の中で、携帯ラジオが、地震の被害の規模が大きいらしいと伝え始めたのである。
会社へ出社してから、次第にかなりの被害が出ているとの情報が行き交い始める。その時点で震災現地では、交通等の社会インフラが破壊され、通信も途絶していた、従って、中々電話連絡がつかず、被害情報や安否情報が殆ど入手出来ない状況であった。
その日の正午ごろ、中内最高顧問から、
①・すぐさま現地へ飛び、救援体制を確立すること
②・現地加盟店を直ちに訪問し、お見舞い、激励すること
③・被害状況を把握して、一日も早く復旧体制を作ること
④・コンビ二の使命である地域のライフライン機能を早急に回復し維持すること、「ローソンの灯りを消すな」、 との指示が出されたのである。
松岡(会長)さんと私(相談役)、関口(専務)さんの三人が、当日の夕方には空路大阪へ飛び、ローソン大阪事務所(EOC)へ入った。
EOC到着後、第1回地震対策会議を開催、被害状況の把握体制と全国よりの応援要請を決めた後、直ちに被害の最も大きい神戸のDOへ向かうべく、2台の車で夜間に出発したが、阪神を結ぶ主要道路が陥没し、橋に大きな段差が生じていたり、家屋が道路上に倒壊していたりで大渋滞し、通行不能であり、また迂回路を探すも、停電の地域が多く、危険であるとのことで、途中で引き返すこととなる。
その時点では、徐々に神戸市街の燃え盛る火災の映像や、新幹線の線路倒壊や高速道路の横倒し状況などが大きく報道されていたが、犠牲者の情報はまだそれほど多く報道していなかった。
翌朝、朝7時に再び出発する。
NHKが特別取材したいとのことで、記者とカメラマンが終始同行することになった。この取材は、後日、NHKの阪神大震災特別番組で放映された。
主要道路は大渋滞で混雑を極めており、通行不能であったから、迂回路を探り探り、我々が神戸のDOに到着できたのはその日の午後9時過ぎであった。約14時間かかっていた。
その途中で見た都市型大震災の惨たる光景は、生涯忘れることはないだろう。
高速道路が脆くも横倒しになり、足払いを受けたように転倒したビル、1階が押し潰されて大きく傾いたビルや商店、瓦礫と化した家屋の列が続く。西へ行くほど倒壊家屋が増えていく。
見慣れた街並みはズタズタになり、ガラスや壁が脆くも壊れ落ちた三の宮の繁華街の変わりようには、呆然とするしかない。
ダイエーの店は押し潰され、かの懐かしき名門オリエンタルホテルは、見る影もなく倒壊していた。
まるで空襲で爆撃を受けたように、市街地のいたる所で幾筋もの黒煙が空を赤く染めて燃え上がる長田の街並みの惨状は、私が子供の頃に体験した、かの戦争と戦災の記憶に全く異ならないものであった。
中々辿り着けない焦燥の車中で、必死で聴き続けたラジオの震災特報ニュースは、震災被害の拡がりと共に、犠牲者の数をあっという間に急増させていった。その時の重苦しい感慨を、適切に言い表す言葉がない。
漸く辿り着いた神戸東DOの周辺で最初に見た光景は、異様なものであった。
余震が続いていたし、まだ行政的にも民間的にも救援体制は全く始動していなかったと思う。あちこちで停電が起きており、真っ暗闇の街中を、人々は冷静に、黙々と行動しているように見えた。
周辺のローソン店舗を訪れると、オーナーさんが一人、ローソクの光で営業を継続していたが、店内はゴンドラが傾き、床には雑誌や商品などが散乱しており、その上をお客様が出入りしていた。「食品や飲料は殆ど売り切れて、もう売るものがありません。商品は何時来るのでしょうか」」と悄然としている有様であった。私も「今は大混乱していますが、情報が分かり次第必ずお知らせします。お店の立て直しのために、全国から応援隊を送り込むことになっていますから、一両日お待ちください。その間何とか、お店を守り抜いて頂きたい」と激励するのがやっとであった。
今更いうまでもないことだが、阪神大震災で店舗が全壊や全焼で営業不能になったお店はいうに及ばず、一部破損、半壊などで一時休業となったお店、そして、どうにか営業を継続できたお店すべての店舗を含めて、オーナーさん、店舗従業員の皆さんは、同時に自宅においても、個人としても、大なり小なり、何らかの被災を受けておられたから、この間のご苦労、ご心労は筆舌に尽くしがたいものがあったことだろう。
ローソン本部の懸命な組織的応援は当然のことであるが、何と云っても、各加盟店の皆さんの、不眠不休の必死の努力、まさに獅子奮迅の働きがあったからこそ、あの大災害を見事に乗り越え、その後のローソンの大発展があったと私は考えている。
恐らく今回の東日本大震災においても、被災地域の広大さと被害の規模、そして原発事故との複合災害という質の違いは大きいものの、この方程式は、全く変わらないと確信する。
ともあれ、震災直後の現地の混乱状況は、当時の記録を見るとよく分かる。
電話回線の不通、携帯電話の大混雑、交通途絶、それに停電、水道、ガスの停止などで、店舗の被災状況や従業員の安否情報も正確に把握できる状況にはなかった。
『地震発生・日別状況の記録』を参考にしながら、地震直後の状況を再現してみたい。
<店内カメラが見た被災状況>
《【1月17日】--地震発生当日
[午前5時46分] 地震発生
[午前9時前後]
・EOC尾西事務所長、自宅が少し被災するも、停電、電話不通の中、徒歩で出勤を試みる。
・7時台のニュースでは映像報道は殆どなかったが、8時台になり、高速道路の倒壊映像などが流れ始める。
・東京本社・本部長・室長召集、EOC内に緊急対策本部設置を決める。関口専務を本部長として本部スタッフと共に派遣決定。
・飛行機予約取り難い状況だが、座席の取れた分から順次出発する。新幹線も一時不通、その後東京・京都間が動き出す。
・EOC内、エレベーターホール、ひび割れ、天井から床までの亀裂、キャビネットの倒れなど発生、少ない出勤者で整理作業をすると共に、EOC勤務者と、近畿第6、第7、第8の各DIVで、それぞれ安否確認を開始するも、通常回線の電話が非常に架かりにくい。
・東京本社とEOCの専用線も架かり難い。EOC対近畿圏も中々架からない状況。携帯電話は通常回線よりは架かりやすいが集中する ためか混乱している。神戸・芦屋方面は最大被災のため全く架からない。
[正午ごろ]
・東京本社に中内CEO(最高顧問)来社、、緊急対策方針の指示あり。全国店頭で義捐金の募金開始を決める。
・EOCにて、本多DM,坂毛DMが指揮を執り、第6、第7、第8DIV内の情報収集の努めるも、通信交通共に途絶状況のため困難を極める。
[午後4時半ごろ]
・松岡会長、鈴木相談役,関口専務EOC到着、第1回緊急対策会議開催。「緊急対策の基本課題」を整理し、直ちに、被災状況の把握、店舗運営、商品供給、物流体制の状況把握と復旧、店舗設備点検復旧、情報システムの保全維持、緊急通信体制の確保、救援人員動員体制の手配、売上金管理体制等の責任体制を決める。
・情報収集のため携帯電話をレンタル手配、店舗用つり銭補充の準備をして、連絡用バイクにて尼崎・芦屋・神戸西・神戸東・明石の5DRに直接届けるために出発させる。
・米飯工場、物流拠点の被害も大きいことの報告が入る。関東、東海の米飯工場より近畿圏への陸送手配を依頼する。
・兵庫5DRへの応援人員92名と京都DDC、西宮CDCなど物流拠点への応援派遣97名を東京本社に要請、東京本社東日本リージョンより、77名を京都DDCに派遣が決まる。
[午後7時ごろ]
・松岡会長、鈴木相談役、被災状況把握と加盟店お見舞い・激励のため、車2台にて神戸西DRに向けて出発。
・近畿エリアより遠藤ARM以下7名、増山ARM以下10名が芦屋DRに向けて陸路出発。
・神戸長田区の黒煙、空を覆う火災映像がTVに流れ、鎮火の気配は全くなく画面が赤い。
[午後10時ごろ]
・バイク便各DRに到着の報告あり。道路状況を聞く。
[午後11時ごろ]
・松岡会長、鈴木相談役、神戸入りを断念して途中から引き返す。
・遠藤ARM以下7名芦屋DR着、山口DOMのもと店舗復旧作業を開始。
・長田区、兵庫区全壊店舗6店舗の報告、神戸東から西は通行不可の情報が入る。
【1月18日】--地震2日目
[午前0時ごろ]
・EOCからは神戸エリアに電話が相変わらず架からない。東京本社の方が架かり易いとのことで東京から神戸と連絡を取り、EOCに伝える経路にする。
[午前3時過ぎ]
・19日以降の応援派遣が次のように決定する。京都第5DIVより80名、九州第10DIVより80名を、19日、20日に派遣する。
・関東第2・第3・第4DIVより120名を、21日、22日に派遣する。
・増山ARM以下10名午前5時過ぎ芦屋DRに到着の報告あり。
[午前6時ごろ]
・東京本社より兵庫5DRへの架電により店舗被災状況速報確認される。
・総店舗数273店舗中、連絡確認できた店舗数は257店舗(内、営業継続店舗131店舗、一時閉鎖店舗126店舗)、連絡不能店舗は16店舗)なり。特に、芦屋DR,神戸西DR,神戸東DRに被害が集中している。
・関東より緊急陸送の米飯商品、171号線で神戸に向かうも大渋滞で、センター納品できず、尼崎DRに一括納品し、SVの手で各店舗
納品を試みることとする。
《実はこのとき、私はEOCに居たのだが、東京の物流会社新川運輸のドライバー上野さんから「東京からやっとの思いでここまで来たが、大渋滞でとても配送センターまで行けない。弁当、おにぎりの賞味期限も切れるし、どうしたらよいか、適切な指示が欲しい」と緊迫した電話が入ったのだ。直ぐに高山商品本部長に連絡し、配送車両を直近のDR店舗に届けてよいとの諒解を得、緊急対応した記憶が鮮明に残っている》
[午前7時ごろ]
・営業を継続している店舗では、売り場の水、食料品は売り尽くし、自分たちの飲む水、食料もない。商品来ないのか。飲み水がない、食料がないとの声が次々と上がっていると、遠藤ARMが訴えてくる。
・松岡会長、鈴木相談役、車2台にて神戸東DRを目指して再び出発、迂回路を探しながら約14時間の難行となる。
[午前9時ごろ]
・EOCにて対策会議開催。以後2時間ごとに情報共有化を計ることにする。
・米飯7工場のうち4工場が地震被害を受け生産不能となる。
・取引先工場も生産ライン軒並みストツプとの情報。
・配送車増車するも、前日の配送車が帰らない。岡山から兵庫への救援便も大渋滞。日配食品製造が追いつかないなどで、一日3便体制維持は不可能で1便に緊急集約することを決める。
・従業員の安否、被害状況も把握に手間取る。
・芦屋DR,神戸西DR、神戸東DRとの連絡が取り難いので緊急バイク隊27名を編成、店舗被害状況の現認とVTR収録及び携帯電話での報告のためため出発させる。
・東京本社より近畿の物流拠点・京都DDCへの応援隊77名選抜し、午後9時東京を出て19日朝5時DDC到着の予定との連絡あり。
・中四国第9DIVからの応援隊午後2時岡山からバスで神戸に向かうとの連絡有り。神戸西DRに午後8時ごろ到着予定とのこと。
[正午ごろ]
・藤原社長、奥田運営本部長、黒木建設本部長ほか、東京よりEOCに入る。
依然として電話がつながり難い中、「水がない」「ガソリンがないので車が動かない」「生ゴミが溜まっている」「トイレ、仮説トイレが欲しい」「常備薬がない」「消耗品、つり銭がない」「商品がない」「配送車はいつ来るのか」等の悲鳴の声が次々と架かってくる。どうしようもない。
[午後8時ごろ]
・松岡会長、鈴木相談役,漸く神戸東DR(今村DOM)に辿り着く。
《私は直ちに神戸西DR(大西DOM)に移動して、DOM同行にて店舗お見舞い・激励訪問を開始した。》
岡山からの第9DIV緊急応援隊約8時間かかって神戸東DO、及び西DOに到着し、兵庫各DRに分散し店舗復旧活動に入る。
・EOCにて対策会議
金融機関被災のため送金・入金などが出来ない状況への対応策を検討する。
売上金の回収、精算金、給与、家賃などの受け渡し特例のルールを決める。
<地震発生日別状況の記録>
【1月19日】ーー地震3日目
[午前4時ごろ]
・関東からの「おにぎり4万5千個」配送便、米原付近降雪のためセンター入庫大幅遅れる見込み、
・同じく名古屋からの配送便も、「おにぎり3万7千個」も遅れるとの報告あり。
・京都DDCからの配送便4時間30分遅れでスタートするとのこと。
・堺DDPへ取引先の納品遅れ最大6時間、岸和田DDPも入庫遅れあり。
・物流は出庫確認は取れても、店着納品確認は取れない状況。配送車両が帰らず、通常の3倍の車両が必要との悲鳴あり。
[午前9時ごろ]
・EOC・東京本社で合同対策会議開催。
・営業店舗、未営業店舗の店舗数、一時閉鎖店舗の原因調査続行。
・依然として交通網寸断している。加盟店との精算金の受け渡し方法、売上金の回収実施策を決定する。
[午前11時ごろ]
・九州第10DIVより応援隊第一陣到着、午後2時、第二陣到着す。
[午後5時半ごろ]
・第5DIVから芦屋DRへの応援80名到着し、それぞれ各店舗に配置して復旧作業を始める。
[午後8時ごろ]
EOC対策会議
・未営業店舗は地震直後の142店舗(52・0%)(一時閉鎖店舗126店、連絡不能店舗16店)から、57店舗(20・8%)に減少したので、総店舗数273店舗のうち営業継続店舗は131店舗(47・9%)から216店舗(79・1%)に増加。
・西宮CDC対岸の橋に亀裂あり、配送車通行不可とのことで、700店舗分納品が不能となる。
・急遽250店舗分は代替センターにて来週から対応し、500店舗分は大阪南港に倉庫を確保し、限定SKUの一律納品にて暫定対応することとする。通常800SKUを300SKUに限定、一日一便とする。
・復旧応援要員237名(店舗応援160名、DDC応援77名)全員到着完了。
・21日以降は、全国SV300人の派遣体制を取る。
・神戸市内夜間暴動の怖れありとの情報有り、各店舗常駐者に注意喚起のこと。
・現金回収は紙幣を最優先にすること確認。依然として電話が架かり難い、各DRとEOCはつなぎ放しにすること確認。
・依然として電話は架かり難く、各DRとEOCの間で電話つなぎ放しにすることなど確認。
【1月20日】--地震4日目
・売上金回収のASSスタッフ到着。往復の道路は相変わらず大渋滞が続く。
[午後3時ごろ]
EOC対策会議
・神戸・芦屋アリア、納品一日一回も来ない店舗多数発生。
・従業員の食料、水も欠乏とのこと。近畿メール便に、水、食料、常備薬、ガソリン、毛布など救援物資を乗せ、出発させる。
・復路はゴミ回収することとする。
・全国からの約300人応援隊の勤務体制及び生活支援体制を準備する。
・応援隊の宿泊施設として、EOC5階フロアと流通科学大学体育館を確保する。
[午後9時ごろ]
EOC対策会議
・以降、対策会議を一日2回午前と午後に開催することとする。
・各担当ごとによく連携して、各自の責任課題を遂行することを確認する。 》
以上が、地震発生直後数日間の生々しい記録の一部である。
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