<コンビ二創業戦記・別伝>「DCVS回想録」第19回

      2017/01/24  

「嗚呼!阪神大震災」(その2)

いま考えてみれば、1995年(平成7年)という年は、日本にとって、歴史的な大転換の年であったのだ。

1990年代に入り、戦後世界を規定していた冷戦構造が終焉するという世界史的激動が進む中で、過熱していたバブル景気が崩壊し、金融機関や企業の破綻、政治家や官僚の不祥事などが相次ぎ、日本経済の混迷感が深まっていたところへ、1995年1月、阪神大震災が起こった。さらに続いて3月には東京で、衝撃的な地下鉄サリン事件が重なる。

日本経済は、これらの多重的要因の積み重なりによって、社会不安、政治不信、経済の先行き不透明という三重苦に、否応なく苦しみ続けることになったのである。

そして、中内ダイエーグループが致命的な損害を受け、その後の運命を左右する遠因となったのも、この年である。

統計によると、この年を頂点にして、日本の労働力人口は一貫して減少に転じ、内需が停滞し始め、物価指数でもデフレ経済に転換していく。日銀の超低金利政策が開始されたのも、この年である。

1995年は将に、現在でも未だに、本質的に克服しえていない今日的状況、『日本の失われた20年』が、実質的に始まった年といっても過言ではないだろう。

<「緊急対策本部」から 「復旧対策本部」へ>

地震発生直後に、EOC(ローソン大阪本社)に設置された当初の「兵庫県南部地震・DCVS緊急対策本部」は、東京本社からの緊急派遣要員で構成され、延べ120名に及んだ。

被害の詳細が次第に把握されるようになり、復旧計画立案の見通しが立ち始めた2週間後には、非常時対応で一時的に混乱した全社レベルの業務正常化を実現すると共に、、被災現地の早期復旧を推進する実行責任体制として、現地主体の「兵庫南部地震・DCVS復旧対策本部」として1月30日付けで再編成されることになる。詳細は、下図の通りである。

   <緊急対策本部組織>           <復旧対策本部体制>

地震発生から4日目あたりから、店舗建て直し応援部隊の活躍のお陰で、各店舗の被害状況が、次第に正確に把握されるようになり、個店の被害レベルに応じて、その復旧の段取りが少しずつ見通せるようになっていく。

阪神大震災で、加盟店オーナーさんや、店舗従業員、そしてローソン社員に、死亡や人命に関わる負傷等の人的犠牲者が殆ど出なかったことは、将に不幸中の幸いであった。

一部の復旧不能な店舗を除き、営業再開する店舗が日ごとに増えていった。因みに、兵庫地区DRの店舗の被災状況を、地震発生一日後の1月18日午後6時と、一週間後の1月24日午前9時の報告書で、比較してみよう。

1月18日には、兵庫エリアの総店舗数275店のうち、営業継続中148店、ゴンドラ倒壊や店内破損で、一時弊店中の店舗104店、火災や建物倒壊などで営業不能な店、21店舗と報告されていた。

被災店舗の売り場建て直しには、震災直後一両日のうちに、全国から社員392名を順次緊急動員、芦屋DRには135名、神戸東DRには95名、神戸西DRに85名物流センターに77名と集中配備して、昼夜交代で復旧作業に当たる事ができた。

加えて、店舗の建物被害や設備破損に対しては、建築関係20チーム、冷蔵機器チーム25チーム、ゴンドラチーム18チーム、看板復旧チーム10チームなど、延べ73チームに上る全国からのお取引先を含む緊急施設応援部隊が、昼夜兼行で協力していただいた。

1月24日には、そのお陰で、営業中245店舗、復旧工事中10店舗、営業不能店舗18店舗と、一週間で大幅に営業体制を復旧・再開することが出来たのである。

しかし、電気、水道、ガス、電話などの公共インフラは、地域により被害状況が異なり、回復工事は遅れていた。

また、コンビ二の生命線である物流、配送センター、米飯工場などサプライチェーンの受けた被害も大きく、その全面回復には、場所によっては最低でも数ヶ月の期間を要する見込みであった。

<中内さんのお見舞いメツセージ>

震災直後の緊急対応には、考えられるあらゆる対策が講じられた。

例えば、商品供給面では、

・1月17日から23日まで、水、ラーメンをDRに緊急配送し、SVが店舗に運ぶ、ミニバン、バイク便を使用する。

・1月20日には、ヘリコプターにて、米飯、水など20トンの商品を9往復で運ぶ。

・1月24日・25日には、大阪南港よりフェリーで米飯、青果類を輸送する、など緊急対応を行うも、焼け石に水であった。

生産・物流面では

・兵庫エリアの米飯工場は、4工場のうち3工場が被災して稼動できず、代替基地及び東海エリアから緊急供給。復旧は、ガス回復を含めて2月上旬の見込み。

・チルドセンターは、被災で稼動できず、2箇所の代替センターから、一日一回納品で対応しているが、2月からは6箇所の代替センターより一日三回納品が可能の予定。

・ドライ雑貨センターは、2センターのうち、一センターが被災、稼動中止し、新センターを検討中。当面取引先よりの直納品にて対応中。

この時点では、コンビ二の生命線である商流・物流の完全な回復には、かなりの時間を要するものと思われたのである。

これらの被災地域の商流・物流の大混乱が、被災現地はもちろんのこと、全国規模でも、非常に大きな波及的影響を及ぼしていたからである。

<義援金募金活動>

1・「兵庫県南部地震・義援金募金」

地震発生当日の午後4時、「ローソンは全国のお客様と共に被災地の『復興』に協力します」の合言葉で、全国都道府県5100店舗のローソン店頭において<兵庫県南部地震・義援金>の募金受付を開始する。

1月24日時点で1億円に、2月8日には1億6866万円に達したとの報告あり。1月31日第一回分を兵庫県対策本部に献金する。

その後も募金活動を、約一年間継続実施したと記憶している。

<義捐金御礼広告>

2・「被災加盟店への救援募金」

地震発生直後から、DCVSオーナー福祉会として、被災地のオーナーさんたちを力付けたいとの理事有志からの提言があり、募金を募る形で取り組んだものである。

これにも、多くの募金が全国のオーナーさんたちから寄せられ、被災オーナーさんたちを、非常に元気付けるものとなったのである。

私も本部からのお見舞金も合わせて持参して、神戸の被災店舗をそれぞれのDOMと共に、軒並み激励訪問して歩いたことを、まざまざと記憶している。

<加盟店募金呼びかけメツセージ>

<大震災で痛感したこと>

第一に、大震災に際して、被災地・被災者の非常時の暮らしをサポートする『コンビ二の緊急救援ライフライン機能』が、明確に実証されたことである。

日本経済新聞は、地震発生10日後の1995年(平成7年)1月26日の記事に、

【地震に関連する火災以外には、日常生活を脅かす人為的な事件は生じなかった。

建物が崩壊し、交通が途絶する中で、地元スーパーや生協、大手コンビ二エンスストアが営業を継続し始めたからである。

コンビニエンスストアが商品が払底した後も看板・店内を点灯している状態は、夜の街に安心感をもたらした】との投稿を掲載した。

【その中でもローソンが、地震翌日には、大なり小なり被害を受けながらも、被災地域の約7割の店舗が営業を継続している】と報じ、【コンビ二がライフラインとしてはっきりと認識され、そして活動した最初のケースといっても過言ではない】と報道したのである。

このことは、何時なん時、何処で、同じような大災害が起きるか分からない日本災害列島において、コンビ二がそれまでの20数年掛けて築き挙げてきた『地域の毎日のの暮らしのライフライン機能』の持つ重要性が、改めて再確認されたことを意味している。

それは我々コンビ二ビジネスに携わるものにとって、その「社会的使命観と誇り」とを強く実感させるものであった。

第二に、ローソンがナショナルチェーンを目指して築き上げてきたコンビ二チェーンとしての総合力が、他に先駆けた素早い店舗の立て直しと機能回復・復旧の過程で明瞭に示されたことである。

全国からの500人に上る緊急応援部隊の集中派遣等の人的支援と、商品など大規模な緊急輸送等の本部の懸命な復旧支援活動は、一時的混乱を短期間の内に自力で乗り越える力となり、地域のお客様のローソンに対する信頼を一層深め、加盟店と本部との絆をより強めるものとなった。

第三に、チェーン本部として大災害を想定した事前の対応策をキチンと講じておくことの重要性をいよいよ再確認させられたことである。

ローソンでは、阪神大震災の2年前に発生した北海道南西沖地震で奥尻島に大きな被害が起きた時に作られた、ダイエーグループの『危機管理マニュアル』を参考に、『ローソン・コンビ二版』を用意していた。

お陰で、比較的に素早く、組織的に、機動的に、対応することができたと思う。

これに阪神大震災での様々な経験と教訓を加えて、震度7の大地震を想定した『ローソン災害支援マニュアル』が、更に整備・充実されてゆくのである。

今回の「東日本大震災」においても、地震の規模、地域の広さ、津波災害の大きさに加えて、原発事故による放射能災害も発生するという、1000年に一度と云われる苛酷な状況ではあったが、それでもローソンにとっての阪神大震災での組織的経験が、いろいろな面で活かされたのではないかと推察している。

震災を経験した人が居るのと、経験していない人との対応の差は、極めて大きいものだからである。

阪神大震災以降、日本列島は地震活動の活性期に入ったといわれ、現実に大災害が続発した中で、東日本大震災に遭遇したのである。

ごく近い将来において、首都直下型地震や東海地震、東南海地震、南海地震、更にはその複合大地震まで想定されている。

大災害に対するベストと考えられる事前対応策を、チェーンとして、改めてきちんと、再構築し、常に点検・整備しておかなければならないだろう。

危機対応マニュアルの見直し整備と、訓練の繰り返しによる組織的意識の共有・深化、オフイス・店舗・センター・工場・システムインフラなどの防災対策の推進、非常用通信・交通手段の準備、非常用食品・水等の備蓄など、取組むべき課題は今や明らかである。

「災害は忘れた頃にやってくる」とは、よく聞く格言だが、今や「忘れないうちにやってくる」からである。

<阪神大震災一年後の謝恩広告>

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