第145話 5月12日 神田神社、江戸蕎麦奉納
季蕎麦めぐり(七)
蕎麦好きたちは「蕎麦でも食べ行こうか」と誘い合ったりするが、一般には「メシでも食いに行こうか」と声を掛けるだろう。この場合の「メシ」は「御飯」のこととはかぎらない。「コミュニションをもとう」という意味を「メシ」と云い表わしていることはいうまでもない。
これは日本人の感情、行動、思考が「飯=米」を支柱としていることの表れのひとつであるが、そうなったのは飛鳥時代の天武天皇が、米を主食とすることを決めてからのことだろう。
中国大陸の長江下流域を起源とする水田稲作技術⇒米が、北九州の肥前唐津(佐賀県)に上陸したのは、縄文晩期だった。持って来たのは朝鮮半島の人たちである。彼らは北九州において邪馬台国はじめ百余の国を建てた。
それ以前にも中国大陸南部の人たち、あるいは東南アジアの人たちが南方の芋などと共に南九州に持って来た焼畑⇒米があった。彼らこそが『魏志倭人伝』でいう「狗奴国」の人間であるが、彼らの焼畑農法は季節に対して受け身であった。対する、北九州の水田技術は春に種を撒き、秋に収穫するという具合で、季節と能動的に関与していった。そこから暦、計画、分業などの仕事の概念が生まれ、政治力が育っていった。そして富が蓄積され、それをめぐって戦が勃発、勝利したクニは拡大し、さらに米文化は東漸、やがて近畿大和国が中心となって、水田稲作をやっている西日本が一つの国日本になった。その折に南九州も併合されたが、東国、北国はまだ非水田稲作のクニ、蝦夷のクニ、まつろわぬクニであった。
余談ながら、2000年経った現代でも、北九州の米の酒文化圏と、南九州の芋焼酎圏は明確に別世界となっている。
かように、わが国の風土においては【気候東漸=文化東漸】が自然の摂理である。そして中国大陸を源とする文化がわが国に上陸した地点が、たいていは古き肥前国であった。そこから東方へ向かって拡がっていったのである。
もうひとつ余談だが、お昼に梅干しのおにぎりを食べて、お茶を飲んだとしよう。その材料である梅の木は肥前平戸に上陸し、茶の木は肥前基山で初めて栽培された。またそれを入れる食器(磁器)も肥前有田から始まったのである。
これを称して「日本の、日常茶飯事は佐賀から始まった」と佐賀の人は言う。
さて、話を戻すと、天武天皇はしばしば肉食を禁じた。
日本は「花鳥風月」の四季に富んだ国だとはいうものの、一方では梅雨、日照、台風などの自然災害の風土でもあった。したがってその災害から逃れ、水田稲作の豊穣を願うのは当然であった。そんなとき、仏教では殺生を禁じれば天寿国へ行けるとの教えがあることを知った。だからわが国は仏教を採用し、穢れた肉食を控えるようになった。それから米は聖なる食となり、日本人の食の基本は、米と野菜と魚となったのである。
かくて農の神・大国様や漁の神・恵比寿様が生まれて尊ばれ、五穀豊穣を祈願、そのために神の田・神田が作られるようになった。 (ちなみに、わが国には肉の神様はいない。)
ここ神田神社もそうである。祀られているのは、大国様と恵比寿様、それに平将門様の三柱である。
その神田神社と縁あって、私たちは平成20年から江戸蕎麦を奉納しており、今年で5回目になる。
境内で「常陸秋そば」を打って、三方にのせ、三神へ厳粛に奉納するのである。
さて・・・・・・、私たちが「日本人とは何か、日本人は何処から来たか」などと議論するとき、上述したように米のルーツを中心とした、民俗、歴史の観方をしている。それを私は「米史観」と呼んでいる。
確かに、米は日本人の大黒柱である。しかし、われわれはアジア麺文化圏の一員でもある。ならば、もう一つ「麺史観」から日本を見なければ正しい歴史は分からないだろう。その提案が、この江戸蕎麦奉納にあると考えるがいかがであろうか!
参考:『魏志倭人伝』(岩波文庫)、
蕎麦談義 (第72、26話)
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕