第73話 『四條流庖丁書』
食の思想家たち二、多治見貞賢
「四條流」の起源は、藤原山蔭(四條中納言、824-888)が、光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定めたことに由来する。そもそも朝廷の料理は、磐鹿六雁命の末裔高橋氏が内膳司として司っており、山蔭は内膳職とは関係がなかった。したがって、何故に山蔭に勅命が下ったかは定かではない。そのころ、唐から伝えられた食習慣、調理法が日本風に消化され定着しつつあった状況をまとめようとして、料理法や作法に通じた有識者山蔭に指名があった、といったところであろう。
以来、山蔭の確立した庖丁式は、藤原北家魚名流の藤原隆季を祖とする四條家にと家職して伝えられ、また藤原山蔭の名も「日本料理の祖」として今にいたるまで語り継がれている。
とはいっても、当時の調理法は簡単で、魚介を膾や鮓にしたり、煮ただけのものや、魚や鳥を乾燥させたていどのもので、料理としては〝切り方〟だけが腕の見せどころであった。
この後、藤原家成(1107-1154)・家長兄弟、源行方、藤原行孝・行算兄弟、藤原基藤、紀茂経などの多くの庖丁名人がいたことが伝えられているところからみても、〝切る〟ことがわが国料理の中心であったことは確かである。
時代は下って1489年、その「四條流」の大意をまとめた『四條流庖丁書』が発刊された。それまで口伝、直伝であった四條流が形になったため、現代からみれば「わが国初の料理書」、あるいは「四條流はわが国初の料理学校」とまで言われている。著者としては、奥書に「多治見備後守貞賢在判」と記してあるが、この多治見貞賢なる人物については一切不明である!源流である藤原山蔭については、天皇家に信任があったとか、京都・吉田神社や茨木・総持寺を創建したなど、9世紀の人物であるにもかかわらず詳しく伝えられている。であるのに、15世紀の多治見備後守貞賢の名は他に全く出てこない!
この多治見貞賢とはいったい何者か?
それに、山蔭からおよそ600年後になって何故、何のために『庖丁書』が書かれたのか?
また、それを貞賢に命じたのは、誰か? 天皇家か、将軍家か、それともこの時代の実力者か?
これらの問題を推理する前に1489年という時代を観てみよう。
時は応仁の乱(1467-1477)後、第103代後土御門天皇(1442-1500、在位1464-1500)の御代、室町幕府の将軍は第9代足利義尚(1465 - 1489、在任1473 - 1489)である。
また1489年には、義政(第8代)が白亜の東山慈照寺(銀閣寺)を上棟させたり、芸能では茶道、華道、香道、連歌が流行り、絵師としては狩野正信(1483年、東山山荘の障壁画を担当)、土佐光信(1489年「後土御門帝寿像」を描く)、雪舟 (1486年、「山水長巻」を描く) らが活躍していた。これらを称して「東山文化」と呼ばれる武家文化、あるいは今に続く日本文化が芽生たときであった。
話は変わるが、「大盤振舞」(おうばんぶるまい)という言葉がある。
年始に親類縁者や友人知人を招いて馳走する「椀飯振舞」(おうばんぶるまい)から転じた言葉であるが、その椀飯とは人様を饗応する献立である。といっても、高く盛った姫飯を中心にして酒肴や菓子などの副食物を添えていたていどである。
椀飯の歴史を見てみると、村上天皇(在位946-967)のころから、節会などの宮中行事の折にはそのようなことがなされていたという。その後、次第に儀式的になり、例えば国司の赴任の際に在庁官人らが椀飯を奉って歓迎の饗宴を行うようになった。
それが武家の時代になると、武士の教養は全て公家を真似たため、椀飯の慣習も武士の間に広まっていった。すなわち、鎌倉幕府では元日より数日にわたり、北条市を筆頭とした有力御家人が鎌倉将軍に対して太刀、弓矢、名馬とともに椀飯を奉った。また元服などの重要な儀礼の際には椀飯が行われ、とりわけ年始に行われる「歳首の椀飯」は武家政権の最も重要な儀式の一つとして行われるようになった。
室町時代には、有力守護大名家の棟梁が足利将軍に椀飯を奉って会食を行う儀式となり、大名家(管領、土岐氏、佐々木氏、赤松氏、山名氏)ごとに将軍の元に出向いて椀飯を奉る日付が定められた。
当時の献立は、椀飯と打鰒、海月、梅干の3品に酢と塩を添えて折敷に載せて出すものであった。また「庖丁」と称して将軍の御前で生きた魚を料理人に調理させて献じる趣向なども行われるようになった。
こうした持て成しが武家社会において主従の結びつきを再確認する役割を果たしていたのである。
しかし、幕府が公家文化の影響が深い京に移るに至って、料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が凝らされるようになっていった。特に将軍を接待する御成が盛んになってからは次第に宴会料理の形式が整えられるようになった。ここに「本膳料理」が成立したのである。
本膳料理の時代になると、膳の数は多くなり、醤油の出現によって料理の〝味つけ〟が一段と進展していったのであるが、〝切る〟というこれまでの和の料理の基本は変わらず、イヤ益々もって重要視されていった。たとえば、日本料理の代表格である刺身であるが、初めのころは魚身をただ小切れにするだけであったが、室町時代あたりから次第に庖丁技術で食べさせるものに発展していったといわれている。
このような時代の流れから、武家の間でも、公家の四條流庖丁人に比例する一流の庖丁人が必要となり、生まれていったのである。
それが足利将軍家に仕えた四条流の庖丁人大草三郎左衛門公次(三河国額田郡大草郷の領主)が「大草流」を、また細川晴元(1514~1563)に仕えた進士次郎左衛門尉が「進士流」を創始したことにつながるのである。
また、斯波氏には山内三郎、三好氏には進士美作守、小西周防守、隅田氏には兵庫有秀という庖丁人が仕えていたという記録があるという。
だとしたら、多治見備後守貞賢もある実力者の庖丁人だったと見ても不思議ではない。その実力者としては、姓氏辞典では多治見氏は土岐一族とされているから、土岐氏があげられるかもしれない。
したがって、多治見備後守貞賢は土岐氏の庖丁人として腕を振い、そのために『四條流庖丁書』を書いたという可能性はある。
そして、多治見貞賢が『四條流庖丁書』を書いたからこそ、『武家調味故実』『大草家料理書』『庖丁聞書』などの料理書が続き、日本の料理の基礎が固められたのである。
ただ、先述したように多治見貞賢の詳細は不明である。史上では、正中の変(1324年)で自刃した多治見国長(国綱→国純→国長、1289-1324)という人物がいるが、貞賢は、この国長の縁者なのだろうか?と想像するていどである。なにしろ美濃の守護土岐氏は戦国時代になって守護代の齋藤氏に滅ぼされてしまったのである。そのため多治見貞賢の氏素性はわからなくなり、謎の人物となってしまった。
参考:』)、「食の思想家たち」シリーズ(第67話)、「蕎麦談義」(第11、26、31、43話)、神田神社「庖丁式」、「四條流庖丁書」(『群書類従』第19輯)、報恩寺「俎板開き」、『世界大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)、桜井秀・足立勇著『日本食物史 上』(雄山閣)、志の島忠・浪川寛治著『にほん料理名ものしり辞典』(PHP文庫)、原田信夫『和食と日本文化』(小学館)、「銀閣寺500年の謎」(NHKテレビ) 、
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕