11.3.11 「明日の神話」

     

 

 JR渋谷駅から井の頭線へ向かう広い連絡通路に、岡本太郎(明治44年~平成8年)が昭和44年に制作した巨大壁画が飾られてある。題名は「明日の神話」という。横30㍍、縦5.5㍍、あまりにも大き過ぎるため絵というよりか、ただ壁があるようにしか感じられない。暫く、私は離れて立って見ていたが、多くの人は急ぎ足で通りすぎるだけで、「明日の神話」に視線をやる人はほとんどいなかった。

 元々この絵はメキシコのあるホテルに依頼されて描かれたのだという。しかしホテルが倒産したため一時行方不明となっていたものが発見されて里帰りし、平成20年からここに恒久設置されている。

 絵は第五福竜丸が被爆したときの水爆炸裂の瞬間イメージである。

 あれは昭和29(1954)だった。マーシャル諸島ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で、漁船数百隻、2万人以上もの人がいわゆる「死の灰」を浴びて被爆した。その中に遠洋マグロ漁船第五福竜丸がいたのである。こうした想定外の被害が出たのはアメリカ政府が甘くみていて危険区域を狭くとっていたためであった。

 お蔭で、私たち日本人は昭和20(1945)の広島長崎の原爆と併せて両核爆の被害体験をもつ人類で最大の悲劇の国民となってしまった。その忌まわしき残骸は、広島に原爆ドームが、夢の島公園内には五福竜丸が展示されている。

 ところで、いま目の前に立ちはだかっている水爆の壁画について、太郎のパートナー岡本敏子(大正15年~平成17年)は、「画面全体が哄笑している。悲劇に負けていない。あの凶々しい破壊の力が炸裂した瞬間に、それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがる。」と述べている。

 そういえば、丸木位里(明治34年~平成7年)・俊(大正1年~平成10年)夫妻の合作「原爆の図」を見たときは『往生要集』の地獄以上の衝撃に襲われて気分が悪くなるぐらいであった。今、そのPostCardを見ても、今日現在とてもここでお見せする気にはならない。

 それに比べると、「明日の神話」は確かに全体が哄笑しているかのように見える。そこに悲劇をのり越えて再生する日本人の逞しさと希望が感じられるのも確かである。一緒に歩けば、きっと立ち直れるはず。一緒に歩けば、きっと立ち直れる。そんな声すら聞こえてくるようである。 

 岡本太郎「明日の神話」

  しかしである。両核の被爆から半世紀、平和で、安全で、健康が好きだった日本に3.11複合災害が勃発してしまった。なぜだろう? どうしてだろう?

 希望は、人間にとってもっとも大切なことではあるが、それが忘却の上に成立していたとすれば・・・、理性を失っていたとすれば・・・、欲が増長していたとすれば・・・、何と愚かなことであろうか。

   それでも、それでも・・・・・・、 

 失敗から立ち直るために、 

 悲惨な体験を繰り返さないために、 

 あの「原爆の図」を風化させないために、 

 「明日の神話」を創るために、

 もう一度、考えなおさなければならないだろう。

 そして、勇気をもって、深い迷霧のなかの未知の道を歩いて行かなければならないだろう。

   人間として よりよく 生きていくために

 Better  Living  As  Human

参考:「明日の神話」(渋谷)、「原爆の図」(東松山市・丸木美術館)、岡本太郎記念館(南青山)、源信『往生要集』(岩波文庫)、

〔エッセイスト ☆ ほしひかる