第228話 母なる古民家
古民家を愛する会のための、練習曲-Ⅱ
☆佐賀平野
佐賀空港に降り立ち、タクシーなりバスなりに乗って市内へ向かうとき、初めて佐賀平野を目にした人はたいてい「スゴイ!」と、その広大さと真っ平さに驚かれる。秋には麦穂が黄金色に輝き、梅雨の時期には広がった水田の潤いに感動するだろう。しかも平野のいたる所には堀がある。佐賀城の濠とはちがう川のような堀、佐賀人はそれを戦時中あたりから「クリーク」とよぶようになった。
「多布瀬の清流とこの青葉とは佐賀の生命かもしれぬ」と言った画家の青木繁は南の佐賀平野までは見ていないが、佐賀の特色を直感的につかんでいたと思われる。
ちなみに、父は生前、お城は「濠」、そこら辺にあるのは「堀」、と佐賀では字を使い分けると言っていたが、辞書にもそう分けて記載してあるから、佐賀人の分別は正しいということになる。おまけに、濠には「お」まで付けて「お濠」というのに対し、堀の場合はいかにも軽々しく「ホイ」とよぶから面白い。
さて、文明論からいえば、一般的には水のある所に人が集まり民家や路ができ、やがては村となり町となる。
しかし佐賀干拓地区では、水のない所に人が集まってきた。それは干拓が目的でやってくるからであるが、そこで人は民家を造り、川がなかったので水場も造った。それが堀である。
この堀は民家の近くでは生活用水となり、田にあってはそれを満たす水にもなる。佐賀平野を行くと、この堀が四方に張り巡らされて独特の景色を作り出している。それに佐賀の川や堀には必ず棚(「川路棚」という)が作ってあり、昔は人々がそこに下りて洗物をした。また平野の堀のいたる所に水門(「井桶=イビ」という)が設置されている。これを開閉して田に水を流すのであるが、この「川路棚」と「井桶」も佐賀の名物だろう。
佐賀の民家もまた独自の建て方である。つまり、上から見るとコの字あるいは凹の形 ― 竈のような形だから、「クド造り」とよばれる。佐賀を中心にして、福岡の西の一部と長崎の東の一部と熊本の北の一部に点在するが、何故このような「クド造り」が考え出されたのかはわかっていない。こうしたクド造りの民家には土間があって、雨風の日でも屋根の下で仕事ができるから耐風構造によるだろうとの説もあるが、対台風の構造なら、南九州の方がより必要ではないだろうか。
民家とは、身分制度時代の神社仏閣や武家屋敷以外の、農(漁・山)・工・商家のことをいう。当然、身分制度がなくなった現在では、あまり「民家」という言い方はしなくなった。それに昔の民家は地産地消であったが、現代の建材はインスタントで、グローバルである。だから、昔の地産地消によって建てられた民家を古民家とよぶ。
こうした古民家は普通、漁村は密集しており、農・山村は比較的個別に存在している。それは漁業というものが協同で作業するから、民家も肩を寄せ合って建てられるのである。
ところが、佐賀干拓地の古民家もまた集まって建てられた。それは干拓という事業が協同で行われる性質のものだからである。そして何よりも、毎日の生活用水として使う堀(クリーク)というものが、皆で仲良く使用しなければならないから、集落になる必要があるのである。それにこの堀は川ではないから生活用水として使っていると、定期的に底を掃除しなければならない。これもまた協同作業である。
☆父と共に本家再訪
亡き父の七七日の今日、父の遺影を持って本家を訪れた。それは、100年前に生まれた父の家をもう一度父に見せてあげたかったからである。
私にとってもひさしぶりの訪問であった。いま本家は、従弟が守っているが、家は明治20年ごろの建物であろう。そしてここもクド造りの構造である。瓦は二枚重ね、白壁には鏝絵が施されている。中に入ると、広い土間があり、柱も黒く巨大である。文字通り大黒柱だ。大きな仏壇からは、曽祖父、祖父がわれわれを見守ってくれている。
懐かしく家の中を廻っていると、従弟がここにはうどん打ち場があったと説明してくれた。佐賀の食事はご飯の他に、昼食は「冬は温かいうどん、夏は冷たいそうめん」が定番だったのであるが、うどん打ち場まであったとは思わなかった。
裏に廻ると、堀の川路棚も健在であった。水道が完備していなかった時代は、ここで近所の女性が一所懸命に米を研いだり、野菜を洗ったりしていたものだった。
子供のころに見たそんな姿を想い出していると、干拓事業、堀を背景として一族が肩を寄せ合って暮らす家としてクド造りが生まれたのではないかという気がしてきた。何しろ、他国では「鯒は嫁に食わせるな」と言うのに、逆に佐賀では、嫁御に鯒を食わせる。鯒を食べると乳の出がよくなるかららしいが、何と優しい心だろうか。これもクド造りの家の中の生活から生まれた輪の知恵であろう。
昔は現代とちがって、本家の長男の責任と権威・権限というものは絶大であった。早く父親(私の祖父)を亡くしていた次男の父は、長兄に学資を出してもらって大学を卒業し、新婚のころは本家の一隅に住んでいた。そこに〝協同〟と〝秩序〟の並立が感じられる。
亀井勝一郎は「建物は人間の母親だ」と述べたが、そういえば昔は家の中心を「母屋=オモヤ」とよんでいたらしい。どうして「母=オモ」というのか? と考えてみたら、韓国語の「어머니=オモニ=お母さん」からきているのかもしれない。なにしろ、北部九州のあちこちには「元は韓国語」と思われる地名が多く残っている。国境なき古代において玄界灘は人の行く路だったのだから、当然といえば当然だろう。そういう点ではもっと韓国の古民家も見た方がいいのだろうけど、それはさておくとして、佐賀の、母なる古民家が〝協同〟と〝秩序〟という和の理念を育んだのはまちがいないだろう。そしてそれは日本人の精神にもつながっている。
~ 父の冥福を祈りながら、これを記す ~
参考:野本健男『夢想 吾妻鏡』、亀井勝一郎「イタリア紀行」(角川文庫『私の美術遍歴』)
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕