第168話 1本の箸から2本の箸へ

     

☆一本の箸から

 「念ずれば通じる」という言葉があるが、時に本当にそうなることもある。

 このシリーズで、神に架ける箸「イクパスイ」のことを書いたら、何とアイヌ民族舘の関係者の方から「祭祀用のイクパスイ」の写真を送っていただいた。

 おそらく、近いうちにそのような祭祀が執り行われるところから、「祭祀用のイクパスイ」をお作りになったのであろう。

 

製作:(財)アイヌ民族博物館・山道陽輪氏

製作年月:1012年10月

材料:ノリウツギ

寸法:長さ33.0×幅2.67×厚さ0.55cm

祭祀用のイクパスイ☆写真提供:()アイヌ民族博物館

  アイヌ文様は一般には魔除けの意味があるといわれているが、イクパスイに彫られた文様は、生業(狩猟や交易)など、望ましい結果を一片のイクパスイ上に表現するものや、美しいアイヌ文様を入れたものなどさまざまがある。
 イクパスイは、神々と挨拶を交わす大事な道具なので、作り手の個性が最も光る一品で、どれひとつ同じものはない。文様は、いわば祈り手の「面」のようなもので、イクパスイを見れば、その人物の仕事ぶりが分かるといわれている。

  ところで、これを見た人はたいてい「一本! これが箸?」と思われるだろう。私も以前に初めて見たときそう思った。

 その感覚は、江戸の川柳でも見られるから面白い。

  「割箸を片々ないと大笑い」(1800年)

 割箸を初めて見た者が「オイ、片方しかないじゃないか、これでどうやって食えと言うのだ」とガタガタ文句を言っているのを、こちらで見ている人が大笑いしている、という光景である。

 もうひとつある。

 「山出しの下女割箸を二膳つけ」(1827年)

  山奥の田舎出身の下女が割箸を知らないものだから、二個付けて出している、という場面であるが、それを見た先輩が「田舎者が」と舌打ちでもしているかのようである。

 割箸自体は南北朝時代には存在していたが、江戸の料亭を中心にして広く使われるようになったのは1800年代である。だから、庶民または田舎者は割箸というものを知らなかったことが、これらの川柳から伺われる。そして、知っている者でも「箸は2本でなければならない」という固定概念からくる笑い話なのである。

  ところがである。1960年(昭和35年)にアメリカへ行った作家の安岡章太郎はこんなことを書き残している。12月23日、ニューヨークのコーヒーショップでのことである。

 「スプーンの代りに木の棒がついてくることもある。これはまさか割り箸からヒントを得たわけでもないだろうが・・・」。

 いま各地にあるファストフード系のコーヒーショップに備え付けられてある、あの「木の棒」のことである。すでにそのころからあったという、どうでもいいような、かつ貴重な記録ではあるが、ともあれ作家の文章というのは奥が深い。いろいろと考えるヒントになることがある。

 「なるほど」と思った私は、近くのコーヒーショップに行って「木の棒」でコーヒーをかき回しながら、こんな箸の歴史を妄想してみた。

 あれも箸? これも箸!

 

☆日本の箸の物語

 食べる道具の開発を考えると、たぶん熱いモノを食べるとき、誰かがそこら辺の木の枝を折って使ったのだろう。やがて、水をすくったり、肉を突き刺したりすることが必要になったとき、その棒の先を広げたり(スプーン)、尖らせたり(フォーク)することを考案した者もいるだろう。

 中国大陸の人間は、2本の棒を使えばモノを掴めると考え、また汁ものにはスプーン様(匙)で対応した。フォークやナイフ様の道具も一応考えたが、箸にもその機能があるため重要視しなかった。こうした中国式食べる道具(箸+匙)はアジア全地域へ伝わった。

 九州に邪馬台国があったころ、われわれの祖先は手食だったが、その後に日本にも食べる道具は渡来した。

 そのころ日本人の祖先は、食べ物と口の橋渡しするそれを「パスイ」と言っていた。

 後代になって、中国から「箸(=中国語ではヂウ)」という漢字(ただし、今は「筷(=クワイ)」を使っている。)が伝来したので、その字を「パスイ」と読んだ。やがてパスイはハシと発音するようになった。

 古代の、日本人は箸と匙を使っていたのだろう。それが平安中期ごろから日本刀が世界に類を見ないほどに斬れる刀に変貌を遂げた。その影響から料理においても切る技術が発達し、食べやすくするために、食材を切れる庖丁で細かく切ってから煮炊きするようになった。その結果、和食は箸だけで十分となり、汁物でさえ箸でいただくようになった。

 こうして室町時代、本膳料理が完成したとき、日本人の食べる道具は箸のみとなったのである。メデタシ。

  上記は私の独断と偏見の代物である。写真をお送りいただいたアイヌ民族舘にはまた別の言い伝えや見解がおありと思うので、一言お断りをする次第である。

参考:アイヌ民族館長・野本正博さんのお話、『柳多留』(岩波文庫)、安岡章太郎『アメリカ感情旅行』(岩波新書)、『魏志倭人伝』(岩波文庫)、 箸シリーズ(第 168、163、156、115、28、13、2話)

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる