第374話 これが食文化の構造
7月の下旬ごろ、N県の蕎麦製粉業の団体でお話させていただく機会があった。前に、他の県の蕎麦生産者の方や、蕎麦屋さんの集まりなどでお話させていただくときもそうだったが、私がプロの皆さんに話すことは、だいたい決まっている。それは、下記のようなことである。
【食文化=プロ×アマ×マスコミ】
つまり、「提供側と消費者とメディアが一体となって食文化を創り上げていこう」という呼びかけである。
この戦略をとって、「食は文化なり」と誇らかに宣言したのがフランス料理であることはよく知られている。マスコミ、食通、有能な生産者・経営者・シェフが一つになってフランス料理を一流に高めていったのである。
ところが、この戦略はフランスより先に「江戸文化」が先んじて行っていたことはご存知であろうか?
その説明に丁度いい教材があるからご紹介しよう。小杉健治著の『正直そば』である。
「今度、江戸の蕎麦の案内書を作ることになりました。蕎麦好きの多くの人たちのための手引書にもなればと思っています」と言って、地本問屋(出版社)と絵師(ライター)と通人の三人がある蕎麦屋に現れた、という筋である。これはフィクションの娯楽小説ではあるが、構造は史実である。
たとえば、1755年鳥居清広は「江戸名物蕎麦尽」を描き、1769年北尾重政は「絵本浅紫」(出版元:西村源六ら)で「蕎麦は江戸を盛美とす」と書いて上梓した。
また1777年『富貴地座居』では江戸の料理屋31軒のランク付け、1848年『江戸名所酒販手引』約600軒の飲食店を紹介している。すなわち、これらが江戸の飲食店巡り、あるいは蕎麦屋巡りの手引書である。
振り返れば、日本で最初の外食産業「茶飯屋」が浅草に登場したのは1657年頃、すぐに蕎麦屋も現れて(1664年頃)、江戸の人たちは史上初めてお金を支払って外食するようになった。その間に江戸のシェフたちは腕を磨いて競い合い、旨い物を提供するようになった。
蕎麦の世界でいえば、麺の喉越しと感触、つゆの切れと酷を求め、二八・細切りの麺、付けるつゆを作る技術を完成させて、日本独自の江戸蕎麦を創り上げた。握鮨、天麩羅、鰻重などもそうである。
かくて、江戸へやって来た人たちは、立ち並ぶ飲食店をガイドブック片手に食べ歩き楽しむことができたのである。
繰り返すが、食文化は、有能なプロ×アマだけど通人たち×マスコミが、創り上げる。この構造がまさしく先に掲げた図式である。
【有能なプロ×通のアマ×マスコミ=食文化】
ところが、「通」と聞くと、何かブッたところがあるように感じてイヤだと言った人がいた。そこで「オピニオン・リーダー」だと言い直したら、納得された人がいたが、とにかく蕎麦を打つプロの腕は、アマであっても食通の客がいなければ上達しない。というのが、江戸の食文化の構造だった。
だから、「食べ歩き」は江戸の昔からの「日本の食文化」である。
話を冒頭の講演会に戻すと、後の懇親会の席で「和食文化の代表の一つである蕎麦の仕事に従事できることを誇りに思う」とおっしゃったプロの方がいた。ご立派だと思う。
プロはプロの行くべき道を行き、アマはアマらしい楽しみを楽しみたいものである。
《参考》
小杉健治『正直そば』(ハルキ文庫)、鳥居清広「江戸名物蕎麦尽」、北尾重政「絵本浅紫」、『富貴地座居』、『江戸名所酒販手引』、N県における講演会にて、
〔文・絵 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる〕