第188話 地域蕎麦学

     

 ☆深大寺蕎麦の学校

 3月のある日、深大寺の本堂で「深大寺 蕎麦の学校」の卒業式が行われた。

 先ずは、お寺らしく「般若心経」が唱えられた。お経というのは、耳にしても、口にしても心が落ち着くものだ。

 それから校長の祝辞と卒業証書、優秀賞などの授与が厳そかに行われたが、小生も講師の末席に座らせていただいた。

  続く懇親会では卒業生の感想などが述べられた。

 「深大寺 蕎麦の学校」は蕎麦栽培と蕎麦打ちと蘊蓄の講座が設けられている。そのうちの後者二つはよくある講座であるが、蕎麦栽培は他にはあまり見られない。それがこの学校の特色だろう。

 だから、皆さんから「畑に入る感動を味わった」「芽が出る、実が成る。それが愛しい」「作物が一所懸命生きているのだということを実感した」といった言葉が発せられた。

 そして、最後に浅田副校長がこう言われた。「深大寺蕎麦の特色は何か? それは甘い香りであると思う」。

 江戸時代(1718年)、日新舎友蕎子という蕎麦通が著した『蕎麦全書』には「深大寺蕎麦は風味がいい」と書いてある。

 一般に、香りは風味のひとつである。だから、深大寺蕎麦の甘い香りは深大寺蕎麦の伝統が今も引き継がれているということになる。

 浅田さんは続けられる。「それは深大寺地域の土のなせるわざであろうか。研究の余地がある」と。

卒業記念の蕎麦猪口

☆地域蕎麦学

 学問には文化系と理科系がある。

 理科系蕎麦学は筑波大や信州大などが活躍している。

 だが、文化系の蕎麦学というのはあまり見かけない。文化系蕎麦学も和食文化論のひとつであるはずだ。何とか確立できないものだろうか。

 と思ったとき、先人たちの蕎麦への思いを表現した著作物がたくさんあることに気づいた。たとえば、『蔭凉軒日録』『番匠作事日記』『慈性日記』『中山日録』『料理物語』『蕎麦全書』『近世風物誌』『江戸名所図会』等々の財産である。

 ただ、蕎麦という農作物は土、つまり地域と切っても切れない関係があるところから、総合的なものより地域に立って、先人たちの著書を読み解くことが望ましいとも思う。

 そうしたことから、われわれ江戸ソバリエは、地域密着型の「江戸蕎麦学」を提唱しているが、他にも蕎麦の歴史・文化を有する地域としては、京都蕎麦学日本橋蕎麦学深大寺蕎麦学木曾蕎麦学戸隠蕎麦学などが成り立つであろう。こうした考え方を私は「地域蕎麦学」と呼んでいる。

 この学校の生徒さんたちはほとんどが深大寺地区の方だから、先ほどおっしゃっていた「畑に入る感動」という言葉にはこれからの期待が感じられ、頼もしい。

 われわれの立場は学者でもない、ジャーナリストでもない。地域で生活する一般人である。だから、自分にとっての地域蕎麦学はひとつぐらいしかないということになる。

 浅田副校長の「深大寺の土とは何か」ということと、張堂校長がおっしゃった「卒業してからが始まり」ということにそれが凝縮されていると思う。

 

☆わが街の土、水、空気

 だとすれば、私のように深大寺とご縁の薄い者はどうすればいいかという問題が多くの人にもあるだろう。

 「畑に入る感動」といったことは私も十数年前、オーナー制度の畑というものに参加していた経験があるから、よく分かる。それはそれで勉強になるし、楽しい体験である。ただし、地域に密着していない者が注意しなければならないことは、今日はこの畑、明日はあの畑といった他人様の土地にお世話になっているようなことは、真にその土地を愛しているとはいえないということである。ほんとうは、それから脱皮して「自分の畑に入る喜び」、自分の住んでいる土地、水、空気を愛する方を目指すのが望ましい。

 こんなとき、 畑の話ではないが、大塚「小倉庵」(江戸ソバリエの店)の安藤さん(江戸ソバリエ)の姿勢を思い浮かべる。

彼は今年の1月から蕎麦の出前用の乗り物をバイクから電気自動車に切りかえた。街の空気を汚さないためだという。

小倉庵の出前用1人乗電気自動車

 このように、足元をよく見れば、自分が住む地域や土地(土・水・空気)を大切にする方法はいくらでもあるだろう。自宅の庭やベランダで何かを植えるのもいいだろう。こうした姿勢が、自分の地域蕎麦学のスタートなのである。

参考:深大寺蕎麦(第188、187、167、155、154、132、128、124、48、36、9、7話)、

日新舎友蕎子『蕎麦全書』(ハート出版)、齋藤月岑『江戸名所図会』(ちくま文庫)、亀井勝一郎「晩秋の深大寺」(『古典美への旅』旺文社文庫)、江守奈比古『八百善物語』(新文明社・昭和37年)、笠井俊弥『蕎麦』(岩波書店)、三島由紀夫『鏡子の家』(新潮文庫・昭和34年)、松本清張『波の塔』(文春文庫・昭和34年)

 〔江戸ソバリエ認定委員長・エッセイスト ☆ ほしひかる