第383話 舞踏は女の祈り
インドは、日本にとって重要な国である。
アジア外交の合従連衡を考えるとき、極東の日本と南アジアに位置するインドは友好的であるべきとの戦略論であるが、今日はそんな野暮な話ではない。
インド舞踏家で、江戸ソバリエの関本恵子さんにご案内を頂いたので、等々力駅へやって来た。会場は、世田谷野毛の善養密寺だという。
「等々力」と聞いたとき、思い出した。片倉英統先生(江戸ソバリエ講師)のブログに「だんだん」という蕎麦屋を訪ねたことが書いてあったことを。だから、家を出る前に、住所を調べておいた。改札口で地図を見ると、蕎麦屋とお寺は線路を挟んで反対側、しかも両者はかなり離れている。とうしたようか、蕎麦か、舞踏かなんて、迷うことはない。両方を取った。先ず蕎麦屋さんだ。
昼時だったから、お客さんがたくさんいた。
私はいつも《鴨せいろ》。美味しかった。さすがに片倉先生が紹介しているだけはあると思った。
次はインドだ。「なぜインドか?」といえば、 昨年と今年、江戸ソバリエの仲間がインドのラダックへ行っているところへ、ソバリエ認定講座を受けた人の中にインド舞踏家さんがおられたので、その縁に引っ張られたせいだろうか。
催事の会場となっているお寺は古かった。「蜜」の字が付いているからなのか、どこか怪しい雰囲気も漂っている。
そこで16人のダンサーが踊るというのだ。初めにリーダーである関本さんが挨拶した。インドの、新年を祝う踊りだという。
私はインドのことも知らないし、舞踏のこともまったく分からない。ただただ江戸ソバリエさんの応援のつもりで観に来ただけ。
会場の皆さんのお顔は、にこやかだ。その中で一番楽しそうなのはダンサーの皆さん、それに関本さん。
全員が弾けるように舞い、踊る。私にとっては、インドの音楽も、踊りも、聞き慣れない、見慣れない。
そういえば、歴史物を読んでいたとき、インド舞踏は世界最古だと書いてあったような記憶がある。モヘンジョ・ダロやハラッパー遺跡から踊子像も発見されたとか。
旋律はどちらかといえ単一だ。しかし日本の旋律ではない。そして踊りのリズムは周期的なように感じる。身体の動きは、日本の民謡のように左右にゆっくり舞うだけとは違う。彼女たちの動きは激しい。飛ぶ、跳ねる。まるで現代舞踏のようだ。それに指や、腰の動きも妖しい。
しかし不思議なことに哀しいさもある。うっかりすると涙ぐみそうになる。
このとき私は、作家の高樹のぶ子さんが何かで言っていたことを思い出した。
「『アマゾネス』は本当につまらない女たちだ。弓を射るために乳房を切り落とし、戦うために生きるなんて。人を殺すなんて下らない仕事が、もしこの世に必要なら、そんなもの男たちにやらせておけばいいのに。・・・・・・。偉い女たちはみな、女の性や才覚を、うまく武器にして思いをとげてきた。」みたいなことだったと思う。伝説のアマゾネスを引っ張り出したのは、「女性は軍事に関わるべきではない」という比喩であろう。
そういう眼で見れば、舞踏も女の才覚のひとつだと思う。イヤ、女性の身体そのものが平和的にできている。
踊りを通して日・印の橋となっている彼女たちは偉いと思うが、こんな屁理屈を述べるのも、おそらく男性的舞踏論なのであろう。
《参考》
平成28年11月3日 世田谷区善養寺にて
〔文・写真 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる〕